海とトイレ

朝、海に行ってから出社した日は、しばらくの間、かなりトイレが近くなる。

きっと冷えるからだと思っていたのだけど、先日、「海に入った後、ビーチのシャワーを浴びるだけで出社している」ということを同僚に告げたら驚かれて「わたしは海に入ったまま放っておくとすぐに膀胱炎のようになっちゃうから無理だわ」と言われ、はたと気がついた。

もしかして、海上がりにトイレが近いのは、残ったままの雑菌を排出するためなんじゃないか。

とまあ、これを書いたところで答えがあるわけではないのだけど、可能性としてはなくはない。

何にせよ、体は「常に」「必ず」、「体にとって最善の適応」をしているということだろう。たとえ、それが一見すると、望まないような症状だとしても。

体と妄想で会話するということをよくやるんだけど、この間、海上がりに会話していたら、「わたしたち(わたしの細胞)は、あなたのためだけに物質化されたものだから、一生あなたのためだけに働くし、あなたのために働くことが目的だし、喜び」と返ってきて、感謝の気持ちが溢れて泣いちゃった。

端から見たらかなりヤバい人です。たは。

でも、確かに、体って、細胞って、全部がわたしのためのオーダーメイドって言える。わたしのために生きている細胞たち。恩返しに、細胞が喜ぶようなことを、わたしもやって生きていこう。笑おう。

個人メディアの時代のその先

Blogからはじまり、FacebookやInstagram、Twitterまで、一般の人が自分の体験や経験や意見を気軽に発信ができるようになって久しい。

まがりなりにもマスコミの世界でプロの発信側としてキャリアをスタートした自分は、インターネットが普及したことで、「素人」が「裏付けも何もないこと」を「無責任」に「発信」するということに危機感を当初は感じていた。

けれど、ある時点から、これはもう大きな流れのひとつで、抗えないものなのだと気づいた。

もし、神の計画とか、宇宙の意思があるとしたら、個人メディアの発展を望んでいるとしか思えないと。

これまで、マスメデイアの時代には、良くも悪くも、情報はメディアが取捨選択して発信していた。だから、メディア側の成熟が求められていた。

でも、個人メディアが台頭した今、情報の取捨選択をするのはメディア側ではなくなく、むしろ、受け取り手なんだろうと思う。とすると、これからは受け取り側の成熟度が求められるとも言える。

どの情報に接して、どの情報には接しないかも、自分で選べる時代。これまでの世界を基準に考えると、ちょっと危険で怖くも感じるけれど、それが神の計画なり宇宙の計画なのだとしたら、はたしてその抗えない状況をどのように活用することが望まれているのだろう、という方に注目をしたいと思うのだ。

昔はよかったと思うのは簡単だし、いつかよくなると願うのもいいけど、いつだって今が一番よい、最善の状況であるはずだ、とあえて仮定して考えてみるのも面白いものだ。

性格は変えられる?

何か気が重いことがあるときや、嫌な状況に陥っているときに、物事を細分化して見ることを心がけるようになった。

たとえば、会社の上司が苦手でストレスを感じている場合、嫌悪を感じる上司の言動が少しずつ溜まって、最終的に「だから会社が嫌なんだ」と極論に走る癖がわたしにはあった(あくまでも例であって、現実の話ではないですよ)。

でも、よく感覚を研ぎすませて自分の感情を分析していくと、自分が感じている気の重さや、嫌な状況というのは、全体ではなく、その中のごく一点、多くても数点だけだということがわかる。

上司は嫌だけど、仕事の内容は嫌いじゃない、とか。上司は嫌だけど、これだけのお金をもらえる仕事はそうそうない、とか。

細分化してみると、会社が嫌なんじゃなくて、上司が嫌なだけということが往々にしてあるのだ。

なのに、All or Nothingというか、ひとつの部分がダメだとまるで全部がダメといっしょくたにしてしまう。

私の場合は、約束事でもよくそれが起こる。行くと約束してしまったイベントの当日になるとどうも気乗りがしなくなるという現象。

そのとき、気乗りしない感覚を分析していくと、イベントそのものは楽しみなのだけど、車の運転が嫌なだけという場合が結構な頻度である。

不快感を抱いている部分がポイントで明確になったら、その部分についての望みを明確にすればいい。

車の運転が嫌なら人に乗せていってもらうようにお願いするとか、お金を払って配車サービスを頼むとか、いくらでも方法はある。気が乗らないのは車の運転だけで、そのためにイベントそのものに気が乗らないのだと勘違いして、行きたかったイベントをキャンセルするのはもったいない。

会社も同じで、上司が異動になったらいいな、せめて上司と接点を少なくしたいな、と、まずは細分化した部分での望みを明確にしてみる。

そしたら本当に上司が異動になった!という奇跡は、まあ、起こらない。いや、わたし自身は、起こると信じているけれど、起こらない可能性は高い。けれど、自分の考え方、焦点の当て方、つまりは意識が変わったことは確かで、そうすると、あんなに嫌な上司だったけど、なぜかしらないけどちょっとマシに感じるようになった、ということは往々にしてある。

と、ここまで書いて気がついた。めったに会わないんだけど、なぜか好きで、あんなふうになれたらいいなと思っていた友人がいるのだけど、彼女の思考回路ってきっとこんなんなんだな。わたしは40歳を過ぎてできるようになった。

輝いている人には理由があって、その理由というのはその人の持ち物でも、置かれている環境でもなくて、たぶん持っている思考回路によるんだな。

性格の違いでそういう思考をすることが得意か、得意でないかはあると思うけれど、でも、性格だとしても、もしその性格のおかげでしあわせじゃないと本人が感じているなら、思考回路を変えることで変えられる部分がある程度はある気がする。自分がそうだったように。

無駄話に無駄はない


朝、コーヒーショップのレジで注文をするとき、”Do you have any fun plans today?”と聞かれた。

サンディエゴでは店員さんから通りすがりの人まで見知らぬ人に声をかけられることは珍しくなく、コーヒーショップでは”How is your day so far?”などとはよく聞かれるが、「今日は何か楽しい予定はあるの?」というのは初めてで、ちょっと驚いた。

聞いてきたのは若いかわいらしい女の子。きっと私の予定なんて、本当はたいして興味がないはず。ただ、彼女なりに愛想よく接客しようとする努力が、この質問になっただけだと思う。

けれど、もちろん、悪い気はしなかった。

今から10年以上前、抑うつ状態になってアームカットがやめられず、心療内科で抗うつ薬と睡眠薬を処方してもらっていたときのことを思い出した。

医師に、どんなときにアームカットをするか問われて、会社が休みの週末が多いと答えたら、もし気力があれば週末は実家に帰るようにとアドバイスされた。

別に家族に今の状況を話す必要はないけれど、近くに誰かがいて、なんやかんや話をしてくるとそれだけで結構気がまぎれるから、と医師は言った。無駄話ってよく言うけれど、無駄話は無駄じゃないんですよ、と。

私はサーフィンが大好きなのだが、「サーフィンが大好き」の中には、海に入ったり波に乗ったりするだけじゃなくて、ラインナップや駐車場でいろんな人とくだらない話をする時間も確実に含まれている。

意味があるか、とか、生産性があるか、で考えたら、おそらく意味も生産性もあんまりないほうに分類される時間。でも、なんだか心を満たしてくれる時間。

亡くなった夫が最後の数日間に話してくれた思い出話は、ほとんどが無駄でバカなことやたわいないことだった。「懐かしいなぁ、あいつの結婚式の余興で、あいつケツ出したんだよ」とか、「お父さんとサッカークラブに通った、あの時間が好きだったなぁ」とか、そういうこと。

サーフィンなんて生産性のなさの代表みたいなもので、来た波に乗り、また戻って波に乗る、というだけ。これって犬のボール投げみたいだといつも思う。ただえんえんと投げたボールを取りに行ってまた戻ってきてボールを投げて取りに行くのを繰り返すだけ。

でも、サーファーも、犬も、そのとき、その瞬間、「なんかしんないけど楽しー!!!」って、幸せに細胞を震わせたことが、きっと意味のあることなんだ、とも思うのだ。

楽を選ぶことと、逃げること

自分の感覚(と感情)に敏感になって、気分の悪くなるほうではなく、気分が良くなるほうを選択し続けなさい、と「引き寄せの法則」でエイブラハムは言う。

一方で、何か心地の悪さを感じるときはこれまで慣れ親しんだコンフォートゾーンを抜けるときで、逃げずにチャレンジすることで人間的に成長する、と脳科学や心理学では言われる。

さて、今、心地の悪さを感じているとして、それは前者なのか後者なのかわからないというのが長らくわたしの問題であった。

心地悪いことより気分が良くなることを選べばいい?

でも、気分が楽になることを選ぶことは成長の機会から逃げることにならないか?

これについては、お世話になっている治療家、川尻先生の回答が明快で役立った。

基準は、今は気が重かったり、心地悪く感じたとしても、それに挑戦した後の自分を想像したときに、ときときめくか、どうかだと。

これを聞いて、すとんと腹に落ちた。

たとえば、わたしにとって車の運転がそうであった。

免許こそ取っていたものの、運転は苦手。でも、夫が亡くなった後、夫のお父さんに言われて練習を始めた。

当時は正直、気が重かったけれど、車でどこでも行けるような女の人というのはどこかで憧れでもあった。

そのときは、アメリカに暮らす予定はなかったけれど、その後、車社会のアメリカで暮らすことになって、あのとき、心地悪いあの練習をちゃんとやっておいて本当によかったと思う。

改めて考えれば、エイブラハムもちゃんと言っているのだ。

瞬間瞬間の心地良さを選ぶことが大事だけど、それよりもまず皆さんにしてもらいたいことは自分がほしいもの、つまりめざす自分を決めることだ、と。

死別の悲しみ

我ながら狭量だと感じているが、死別の悲しみを
「乗り越えた」と表現することが好きじゃない。

夫を亡くしてから4年間くらいは
思いがあふれて涙が止まらなくなることが
年に数回あったけれど、
7年を迎える今は
涙にくれることはほとんどない。

でも、思い出す瞬間が一瞬もなかったという日は
この7年間一度もなかったと断言できる。

泣くわけじゃないけど
彼が生きていたら今どんな47歳だったかなとか、
彼が生きていたらわたしは一緒に何をしていたかなとか、
今でも時々考えることはある。

彼は憧れの広告クリエーターで、
いつもインスピレーションをくれる存在でもあったので、
原稿の方向が固まらないとか、
企画のアイデアが出ないとか、
仕事で行き詰まることがあったときも
必ず思い出してしまう。

「乗り越えた」というと、何か高い壁があって、
それを越えて向こう側に行ったようなイメージだけど、
今のわたしが元気になったのは
壁を越えて向こう側に行ったからじゃない。

壁は越えられないと、諦めて、受け入れた、
というのが近い。

夫は死んで、彼と暮らす未来は
もう今生にはないことを認めた。

…そうか、もう今生で彼と会うことは二度とないのか。
こうやって言葉にして改めて突きつけられると
やっぱりしんみりと、寂しい。

でも、いま、わたしが日々いつも
寂しがっているかというとそうでもない。

喪失の痛みと寂しさ、悲しみという壁はそのまんまで、
でも壁には目をやらず、壁のこっち側で残りの人生を
どう楽しく生きるかに目を向けることができるようになった。

痛みや寂しさや悲しみと折り合いをつけて
それはそれ、これはこれ、で暮らすことができるようになった。

もしかしたらそれを人は「乗り越えた」というのかもしれない。
けれど、自分としては「うまく共存できるようになった」
というのがしっくりくるかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。

どういうときにどういう言葉を使うかは
人それぞれ違うこともよくわかっているから、
「乗り越えたね」と言われても
もちろん怒ったり、腹立てたりはしないけれど。

パーキングの神様

最近、わたしにはパーキングの神様がついている。

誰もが頭を悩ませる駐車激戦区でも必ずわたしのために駐車スポットをあけてくれる神様。

それも、目指すお店のすぐ前とか、縦列駐車が得意でないわたしでもストレスなく入れられる場所とか、全ての希望を満たした駐車スポットをあけてくれる。

裏話をすると、じつはある時、自分(と相方)に暗示をかけたのだ。「駐車場があくと信じたら絶対あく」という暗示。そしたら本当にびっくりするくらいのタイミングで、びっくりするようないい場所があいた。

おかげで、ちょっと本気を出して信じることができるようになり、信じるほどますます「駐車場運」が上がるという好循環が続いている。

今では、もはや自分たちの駐車運の良さを疑っていない。この状況を我々は「パーキングの神様がついている」と言っている。

以前なら「パーキングが大変そうだから諦めよう」と言っていたような場所でさえ、「我々にはパーキングの神様がいるから大丈夫」と出かけるようになった。そして、実際、パーキングはあく。

もしかしたら、これまでは1分ぐるぐるしただけで諦めていたところを3分粘るようになったからあくようになっただけかもしれない。「あそこはさすがにあいていないだろう」と最初から探しもしなかったような場所まで目が向くようになったから見つかるようになっただけかもしれない。

でも、それもこれも、「絶対あくと信じる」と「決めた」からだ。

これまでだって3分粘っていたらあいたかもしれない。激混みの場所にも目を向けていたら見つけられていたかもしれない。でも、信じると決めなかったらその行動はしなかったと思う。

まず、「信じる」と「決めた」ことが違いを生んだのだ。

裏を返すと、駐車場が見つからなかったときは、無意識だったけど、「駐車場はあいていないもの」っていうことを「信じて」「決めて」いたと言える。

そんな風に、無意識のうちに信じて決めてしまっているものって結構あるから、そういうのを細かく細かく見つけていって、ひとつひとつを自分がハッピーになれる内容に意識的に決め直すとどんどん軌道修正されて日々にしあわせが増える。

まだまだ自分に問い続けようと思う。いつのまにか信じて決めている、自分をしあわせにしないこと、他にないかな?