しあわせを選択すると決める
糸井重里さんがほぼ日の「今日のダーリン」で「がんばる」「がんばれ」ということについて書いていた。
「がんばる」や「がんばれ」を意味でとらえると、重圧を感じて、できれば言われたくない場合もある。
でも、多くの人は、「がんばれ」ってそこまで意味を考えないで言っている。たとえば応援している気持ちを表したいのに他にうまい言葉がないときとか。ということは、つまり、「わぁわぁ」とか「うぉうっ」という叫びみたいなもので、言葉そのものにはたいして意味がない。
そう考えれば気にすることはないし、むしろその歓声を励みに力を出せることもあって、ありがたくも感じるというような内容だ。
糸井さん自身は「がんばってください」という言葉をうれしくないと感じていた時代もあったが、だんだんと「ありがたいことだ」と「感じ方」を変えたらしい。
そう、結局、全ては自分の「感じ方」、なんですよね。
そもそも、同じ言葉でも、人によってどういう意味で使っているかはまちまちなのだ。
だから、わたしたちは普段、「自分だったらどういう意味で使うか」で解釈している。でも、そうと気づかないことが多いから、「なんでこんなときに『がんばれ』って言うんだろう。全然わかっていない。ひどい」なんて反応をしたりする。
これって、原因はその言った相手にありそうだけど、よく考えたら完全な独り相撲です。一見、相手が言ったことに反応しているけれど、結果的にはその人が言ったことを自分がどう解釈するかによって反応しているだけだから。
だから、人の言った言葉でいつまでも悩んだり、嫌な気分でいるのは時間がもったいない。それよりもとっとと自分の感じ方を変えてしまおう。
…と、こういうようなことは、ヨガの本やカウンセリングの本にはよく書かれていた。だからやっているつもりだった。そして、どんどん心に平安がやってくる…はずだった。なのに、ときどき自分の内側から大反乱が起きた。反乱というのは、なんにもやる気のしない日が数日やってくるとか、疲労感で起き上がれない、とか。
…じつはやり方が違ったんだと気づいたのはここ数年だ。
これまでは誰かに何かを言われて嫌と感じた場合、その嫌と感じた気持ちを嫌じゃないと思おうとしていた。
いまはわかる。嫌なことを言われても、自分が心地よいと感じる捉え方を選べばいいって。
「嫌なことを言われても嫌じゃないと思おうとする」と「嫌なことを言われても自分が心地よいと感じる捉え方を選ぶ」は、似ているようで、ちょっと違う。
前者は、上書き。後者は、別の選択。
嫌と感じたことは否定しない。でも、嫌だ嫌だと言っていても自分が楽しくないから、どう捉えたら気分がマシになるか自分に問うてみる。問うてみたら出てきた答えで気分がいい考え方を選ぶ。
たとえば「あの人は単に疲れていて気が立っていただけかもしれない」とかね。
わたしの中には嫌と感じている部分があることは受け入れている。それはそれ。でも、もう一つ嫌な気分がマシになる捉え方を見つけて、そっちを選ぶ。同じ意識の中に、嫌な気持ちを感じる捉え方も、ちょとマシに感じられる捉え方も、いつも同時に存在していて、自分がどっちを選んでいるかだけ。つまり、どっちに焦点を当てているかだけの違い。
これができるようになったら、ちょっとしたことに動じることが少なくなって、おかげで無駄に疲れることがなくなった。自分の気持ちを押し殺して上書きしないから、反乱のようなことが起きることも激減した。
今は時間という概念もそれと似たような感覚で捉えている。今がAで、次の瞬間がBになったとしても、Aは消えて過去になったわけではなく、今はA、次の今はBという風に、AもBもいつも存在していて、自分が今、どっちを選んでいるかで違うだけなのだと。
それが事実として「正しい」のかは、わからない。ただ、わたしはそう捉えると楽しいので、そう考えることに決めた、というだけ。そして、きっと全ての瞬間がそれでいいと思っている。「そう捉えると楽しいからそっちを選ぶと決める」、その瞬間の繰り返し。