死別の悲しみ
我ながら狭量だと感じているが、死別の悲しみを
「乗り越えた」と表現することが好きじゃない。
夫を亡くしてから4年間くらいは
思いがあふれて涙が止まらなくなることが
年に数回あったけれど、
7年を迎える今は
涙にくれることはほとんどない。
でも、思い出す瞬間が一瞬もなかったという日は
この7年間一度もなかったと断言できる。
泣くわけじゃないけど
彼が生きていたら今どんな47歳だったかなとか、
彼が生きていたらわたしは一緒に何をしていたかなとか、
今でも時々考えることはある。
彼は憧れの広告クリエーターで、
いつもインスピレーションをくれる存在でもあったので、
原稿の方向が固まらないとか、
企画のアイデアが出ないとか、
仕事で行き詰まることがあったときも
必ず思い出してしまう。
「乗り越えた」というと、何か高い壁があって、
それを越えて向こう側に行ったようなイメージだけど、
今のわたしが元気になったのは
壁を越えて向こう側に行ったからじゃない。
壁は越えられないと、諦めて、受け入れた、
というのが近い。
夫は死んで、彼と暮らす未来は
もう今生にはないことを認めた。
…そうか、もう今生で彼と会うことは二度とないのか。
こうやって言葉にして改めて突きつけられると
やっぱりしんみりと、寂しい。
でも、いま、わたしが日々いつも
寂しがっているかというとそうでもない。
喪失の痛みと寂しさ、悲しみという壁はそのまんまで、
でも壁には目をやらず、壁のこっち側で残りの人生を
どう楽しく生きるかに目を向けることができるようになった。
痛みや寂しさや悲しみと折り合いをつけて
それはそれ、これはこれ、で暮らすことができるようになった。
もしかしたらそれを人は「乗り越えた」というのかもしれない。
けれど、自分としては「うまく共存できるようになった」
というのがしっくりくるかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。
どういうときにどういう言葉を使うかは
人それぞれ違うこともよくわかっているから、
「乗り越えたね」と言われても
もちろん怒ったり、腹立てたりはしないけれど。