海のプラごみを減らすために、できること

Yomiuri Onlineの「深読みチャンネル」のこの記事が面白かったので共有します。

ストロー排除より確実…片手でできる海洋プラ削減

サーフィンが好きで、海洋汚染について何ができるんだろうとしょっちゅう考えています。

だけど、考えば考えるほど、答えは簡単じゃないということがわかって脱力する、その繰り返しです。

なんで簡単じゃないかというと、地球が良くも悪くも多様性に富んでいるから。理論的、倫理的、現実的に「正しい」と「思われる」ソリューションも、立ち位置を変えてみたら正しいとは言い切れないんじゃないかという疑いが常に頭をちらついてしまう。

そのわたしの疑いを整理整頓してくれたのがこの記事です。海洋プラスチックに詳しい九州大学応用力学研究所の磯辺篤彦教授が解説してくださっています。

たとえば、日本とアメリカが著名を見送ったことが話題となった「海洋プラスチック憲章」も、こういう見方があることを知ると、見送ったことを一概に非難できないのかもしれません(でも、もちろんそれを知った上でも、意見はいろいろあっていい)。

で、結局、やっぱり難しい問題だなぁというところに戻るわけですが、この記事の素晴らしいのは、海岸のゴミ拾いは、地道だけどすごく意義があるという締めで終わっているところ。

現在、海洋汚染ではMPという本当に小さな小さなプラスチックが多量に海を漂っていることが大きな問題の一つなのですが、このMPは最初から小さかったプラスチックに限らず、レジ袋のようなビニールが時間を経て小さくなったものも含まれるのですね。だから、岸辺にある小さなレジ袋一つを拾うことは、未来にばらまかれることになる多量のMPを削減することになると。

波待ちをしていて、ビニールごみを見つけると持ち帰るようにしていますが、「こんな小さなごみを集めているだけじゃキリがなさそう」と思っていたのも事実。いや、実際、キリはないんだと思うのですが、それでも無意味じゃないって、この記事を読んで思えました。ありがたや。

大きなことを変えるのが難しいときは、まず目の前でできる小さなことから。これは何も環境問題に限らず、人生のあらゆる場面で使える考え方でもありますね、きっと。

しあわせを選択すると決める

糸井重里さんがほぼ日の「今日のダーリン」で「がんばる」「がんばれ」ということについて書いていた。

「がんばる」や「がんばれ」を意味でとらえると、重圧を感じて、できれば言われたくない場合もある。

でも、多くの人は、「がんばれ」ってそこまで意味を考えないで言っている。たとえば応援している気持ちを表したいのに他にうまい言葉がないときとか。ということは、つまり、「わぁわぁ」とか「うぉうっ」という叫びみたいなもので、言葉そのものにはたいして意味がない。

そう考えれば気にすることはないし、むしろその歓声を励みに力を出せることもあって、ありがたくも感じるというような内容だ。

糸井さん自身は「がんばってください」という言葉をうれしくないと感じていた時代もあったが、だんだんと「ありがたいことだ」と「感じ方」を変えたらしい。

そう、結局、全ては自分の「感じ方」、なんですよね。

そもそも、同じ言葉でも、人によってどういう意味で使っているかはまちまちなのだ。

だから、わたしたちは普段、「自分だったらどういう意味で使うか」で解釈している。でも、そうと気づかないことが多いから、「なんでこんなときに『がんばれ』って言うんだろう。全然わかっていない。ひどい」なんて反応をしたりする。

これって、原因はその言った相手にありそうだけど、よく考えたら完全な独り相撲です。一見、相手が言ったことに反応しているけれど、結果的にはその人が言ったことを自分がどう解釈するかによって反応しているだけだから。

だから、人の言った言葉でいつまでも悩んだり、嫌な気分でいるのは時間がもったいない。それよりもとっとと自分の感じ方を変えてしまおう。

…と、こういうようなことは、ヨガの本やカウンセリングの本にはよく書かれていた。だからやっているつもりだった。そして、どんどん心に平安がやってくる…はずだった。なのに、ときどき自分の内側から大反乱が起きた。反乱というのは、なんにもやる気のしない日が数日やってくるとか、疲労感で起き上がれない、とか。

…じつはやり方が違ったんだと気づいたのはここ数年だ。

これまでは誰かに何かを言われて嫌と感じた場合、その嫌と感じた気持ちを嫌じゃないと思おうとしていた。

いまはわかる。嫌なことを言われても、自分が心地よいと感じる捉え方を選べばいいって。

「嫌なことを言われても嫌じゃないと思おうとする」と「嫌なことを言われても自分が心地よいと感じる捉え方を選ぶ」は、似ているようで、ちょっと違う。

前者は、上書き。後者は、別の選択。

嫌と感じたことは否定しない。でも、嫌だ嫌だと言っていても自分が楽しくないから、どう捉えたら気分がマシになるか自分に問うてみる。問うてみたら出てきた答えで気分がいい考え方を選ぶ。

たとえば「あの人は単に疲れていて気が立っていただけかもしれない」とかね。

わたしの中には嫌と感じている部分があることは受け入れている。それはそれ。でも、もう一つ嫌な気分がマシになる捉え方を見つけて、そっちを選ぶ。同じ意識の中に、嫌な気持ちを感じる捉え方も、ちょとマシに感じられる捉え方も、いつも同時に存在していて、自分がどっちを選んでいるかだけ。つまり、どっちに焦点を当てているかだけの違い。

これができるようになったら、ちょっとしたことに動じることが少なくなって、おかげで無駄に疲れることがなくなった。自分の気持ちを押し殺して上書きしないから、反乱のようなことが起きることも激減した。

今は時間という概念もそれと似たような感覚で捉えている。今がAで、次の瞬間がBになったとしても、Aは消えて過去になったわけではなく、今はA、次の今はBという風に、AもBもいつも存在していて、自分が今、どっちを選んでいるかで違うだけなのだと。

それが事実として「正しい」のかは、わからない。ただ、わたしはそう捉えると楽しいので、そう考えることに決めた、というだけ。そして、きっと全ての瞬間がそれでいいと思っている。「そう捉えると楽しいからそっちを選ぶと決める」、その瞬間の繰り返し。

【お知らせ】本当のホリスティック医療って何だろう?

企画・編集・取材・執筆している『川尻先生!ホリスティックヘルスって何ですか?』の第5回「現代医療のベースは解剖生理学、代替医療のベースは?」をアップロードしました。

わたしは20代後半から30代前半にかけて抑うつ状態でアームカットがやめられず、抗うつ剤を飲んでいた経験があります。そんな陰鬱な時代のとある日。街に出て、石けんやボディーソープ、シャンプーなどのサンプルを物色していたところ、惹かれるのは全て同じ香りであることに気がつきました。

オレンジの香りです。

じつはわたしは果物のみかんは好きではなくて、これまではオレンジの香りを好きと思ったことはありませんでした。でも、そのときに街で出会ったオレンジの香りは本当に気持ちがよくて、暗く孤独な心にあたたかな小さな火をくべてくれました。

「アロマテラピーってご存知ですか? アロマテラピーで使うオレンジの精油がこの商品には入っているんです」。そんな風に店員さんが説明してくれたので、帰り道、本屋に寄って、アロマテラピーの本を買いました。

見ると、オレンジの精油は「孤独を癒す」「うつを改善する」とあり、なぜかしらないけれど泣けてしまいました。

まあ、その頃はそもそもがうつぽかったので、些細なことでいつも涙が出ていたのですが。でも、そのときの涙はもっと前向きなものでした。自分の知らないところで自分はちゃんと自分を助ける香りを知っていて選んでいた、ということに希望を感じたのです。

意識している自分はうつで、何にもやる気が出なくて、この先の楽しいことを想像する元気もなかったけれど、無意識の自分は自分を元気にさせようとしている…それはつまり自分の深いところの自分は、自分を見捨てていないということ。だから、泣けたのだと思います。

そこからわたしはアロマテラピーにはまり、学校に通い、資格まで取りました。自然療法を学ぶうちに心身の関係にかんして興味が深まり、その探究はエネルギーとか意識とか精神世界とかまで広がりました。

川尻先生は、たとえば、「病気はメッセージである」というような、わたしとしては「そうだと確信している」けれど、「科学では説明できないので“スピリチュアル”な見方としてしか言えなかった」ようなことについて、論理的に科学的に解説してくれます。

第5回は特に代替医療の従事者、自然療法セラピスト、統合医療をめざして活動なさっている方には面白い内容と思いますのでぜひご覧くださいませ!

じゃあね。またね。

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Tokyo Skytree. Photo by Fay

空港に向かうバスを見送る列の中に大泣きしている幼い女の子を見かけた。状況から察するにお正月に遊びに来ていたおばあちゃんとお別れするのが悲しくて泣いているようだった。

自分も小さな頃はそうだったなぁ。

なんであんなに悲しかったのか、いまではもう正確には思い出せないけれど、日常と違う楽しい時間が終わってしまう寂しさや、もう会えないかもしれないという不安があったのだと思う。

もう会えないかもしれない。

考えてみたら、いや、考えてみなくても、ひとつひとつの「バイバイ」にはそれが今生最後のお別れになる可能性はいつだってある。

そこを意識して、毎回、今生最後みたいな気概で会って、別れるときは永遠にさようならをする気持ちでバイバイ…と、やれたら理想だけど、そうすると毎度毎度の「バイバイ」がいちいち一世一代の出来事になって、あの幼い女の子みたいに涙の別ればかりになってしまいそうだ。

わたしは誰かと「バイバイ」するとき、これが最後になる可能性があることを受け入れながらもあえて「また会える」と信じて別れるようにしている。もっといえば、「また会えると信じる」と決めて、別れている。だから、「バイバイ」や「さようなら」より、「じゃあね」「またね」を好んで使う。こういうのは夫を亡くしてから特に意識するようになったことだ。

「また会えると信じると決めた」から、次に会ったときには○○をしようね、なんていう約束も積極的にする。

もしへたに約束なんかしちゃって、本当に最後になっちゃったら、約束を果たせなかったことへの後悔が残らない?

この回答は人それぞれだと思うけど、わたしはもし約束を果たせなくても、その約束を叶えることがお互いの夢なり希望なりになって、離れている間もときどきそのことを考えて互いのことを思い出して微笑んだ時間があったなら、それでいいと考える。いや、むしろ、それがいい。

オハナ

おそらく一般的には珍しいことなのだろうが、わたしは亡くなった夫のお父さんと仲がいい。

夫が生きていたころは、普通によくいる義理のお父さんと嫁だった。ちょっと普通ではないくらい仲良しになったのは夫が亡くなってからだ。

最初のうちは、亡くなった夫の役を、お義父さんで埋め合わせしようとしていた節がある。お義父さんはわたしを気分転換させようと、「あそこへ行こう」「ここへ行こう」とよく連れまわしてくれたからだ。

でも、あるとき、この人は亡くなった夫のかわりにはなりえない、という当たり前のことに気づいて泣けた。その後、しばらくお義父さんが疎ましくなった。

お義父さんがわたしのことを人に「嫁」ではなく「娘」と紹介することに嫌悪を感じて、「嫁です」とわざわざ言い直していた時期もある。

でも、そういういろいろな感情を経て、いまはむしろわたしのほうが「嫁」ということをすっかり忘れ、「娘」気分で甘えまくっている。日本に帰国するときは、かつて暮らしていた湘南の二世帯住宅にも必ず帰るどころか、両親のいる実家より長く滞在することさえある。

それは、「嫁」だからという理由ではもちろんない。単純にお義父さんに会いたいし、湘南の家が好きだし、そこで過ごすことが楽しいからだ。この感覚はもはや「娘」でもないかもしれない。

今年は5年ぶりに日本で年末年始を過ごすことが叶ったが、大晦日と元旦はお義父さんと湘南の家で迎えた。わたしがそれを選んだ。一昨年にだんなさんを亡くした親友も来てくれて、愛犬もいて、たくさん笑った。

ハワイの言葉では家族のことをオハナという。でもオハナが意味するのは血のつながった家族とは限らないそうだ。血がつながっていなくてもオハナはいる。

義理のお父さんとは、オハナ。それが一番しっくりくるかもしれない。人間として尊敬しているし、精神的な意味での絆は誰よりも強く感じる存在。

血のつながった家族がいる人、いない人、いるけど離れている人、関係がうまくいっていない人、いろいろな状況があると思うけど、血のつながりだけが家族じゃないって考えられたら、少し楽になるかもしれない。

感情ナビゲーションを使いこなそう

自分には「肉体の自分」を超える大きな大きな「意識の自分」がいる。目線を逆にすると、「肉体の自分」は大きな「意識の自分」のごく一部である。

意識の自分は本当に大きくて、いろんな人の意識と繋がっているので、どの瞬間も、どうすることが全体でベストかよく知っている。

たとえば、明日会う人に渡すお土産を包む包装紙が必要だ、となった場合。

自分の家に包装紙がないので、肉体の自分は、どこかに買いに行こうとする。

けれど、意識の自分は、壁の向こう、隣の部屋の隣人が包装紙を買いすぎて余らせていることを知っている。

この場合、意識の自分は、お隣さんに包装紙をもらったほうが自分にとってもお隣さんにとってもハッピーだと知っているから、肉体の自分に合図を送る。

肉体の自分は、「ふと」「なんかしらないけど」お隣さんに挨拶してから行こうかなと思ったりするわけだ。

でも、多くの人は、この「ふと」「なんかしらないけれど」の感覚に従わない。

「お隣さんに挨拶? もう閉店時間が近いから話し込んじゃったら包装紙買えなくなっちゃうから、買い物を先にしなきゃ」とかね。

結果、本来ならもっとシンプルにスムーズに進められるはずのことに労力をかけてしまう。

もちろん、それが悪いわけじゃない。ただ、包装紙をもっとシンプルにスムーズに手に入れることができれば、包装紙を買いに行くつもりだった時間を使って別の面白いことができる。

本当は、その余った時間で別の面白いことを楽しむという部分にこそ人生の醍醐味がある。けれど、多くの人は、必要だと思うものを手に入れることに追われて、それが人生だと思っている

自分が両方を体験したから、自信を持って言える。

人生の醍醐味を味わうためには、まずは「ふと」「なんかしらないけど」という感覚を大事にして、従うこと。

ただ、現代社会はロジカルなことこそよしという風潮があって、「ふと」「なんかしらないけど」は軽視されてしまい、いつのまにか多くの人が意識の自分とコミュニケーションを取ることを封印してしまっている。

だから、感覚が鈍って「ふと」「なんかしらないけど」を感じ取れなくなっている。

そこで使えるのが、感情というナビゲーションシステムだ。

気分がよければ、意識の自分と近づく方向に向かっているということ。

気分がよくなければ、意識の自分から遠のく方向に行っているということ。

いま、この瞬間の気分はどう? できれば瞬間瞬間に確認できるのが理想だけど、まずは何か行動をするときやふと我に返ったときに自分の感情を確認することから始めるといい。

もし気分がよくなければ、気分がよくなることを探す。

何が気分いいかはそのときの自分の意識の段階によって変わるので、「前はこうだった」というのにはとらわれずに、今のその瞬間の気分に忠実に。今その状況の中でできる範囲の気分がよくなることを見つければいい。

たとえば、嫌なことをされたとき、それをした人について悪口を言いまくることが気分いいという段階もあれば、その人について考えるより他の楽しいことをしたほうが気分がいいという段階もある。

悪口を言うほうが気分がよかったけど、ずっと言っていたらある段階で、いまはもう悪口は気分よくないという段階もくる。なので、何がいい気分かは一瞬一瞬で変わることも知っておくといい。

以上は、宇宙の意識存在であるエイブラハムの教えから、自分が実践して体得できたこと。

エイブラハムの教えは一般に「引き寄せの法則」と言われていて、実際そうなんだけど、根本は意識の自分と肉体の自分をつなげる方法を説いている。両者が繋がることは「本来の自分で生きる」ことでもあって、しあわせに生きることでもある。

騙されたと思ってやってみて。一週間続けることができたら知覚していた世界がこれまでと変わり始めるよ。