流していない涙
日本を離れて暮らしているために日本の物事に焦がれることはよくあるが、自然についていうと、春の桜と夏の蝉時雨がとりわけ恋しい。
今ぐらいの時期になると日本に暮らす友だちのFacebook投稿に桜がちらほら表れはじめて、わたしはひっそりとバーチャルに花見を楽しんでいる。
日本に帰って実際に花見をしたいなぁと思うこともあるのだが、一方で、桜を愛でることを考えるだけで胸が痛くもなる。夫と一緒に見た桜の思い出がたくさん出てくることだろうと想像すると、実際に桜を見られるような状況になくてよかったと思うのだ。
こういう風に文章で思い出す分にはいいのだけど、本当の風景の中に置かれたときに蘇る記憶は7年経った今でも生々しくて、瞬時に「あのとき」に意識が戻ってしまう。別に戻ってもいいのだけど、痛いのは嫌。
そう思うと、悲しさとか、寂しさの前には、きっと「痛み」があるんだな。それが言葉に置き換えられるレベルまで昇華すると、寂しいとか、腹が立つとかになるんだろう。

今でも、わたしの中にはきっと流していない涙があるんだろうと思う。まだ表に出せない痛み。それをどこかのタイミングで流す日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。
どっちでもいいな。痛みがあるからってしあわせでないわけじゃないし、しあわせになるためには痛みがあっちゃいけないわけじゃない。わたしが体験から感じたことはどんなものであれわたしの意識の層に織り込まれて、わたしを構成する成分になる、それだけのことのように思うのだ。