好きなこと書きゃいいのに
ことの発端は、ある人の一言であった。
レストランで食事をする際に、出されたコーヒーカップが汚かったことを気にしたその人がカップを変えてくれと店員さんに言った。
わたしとしてはそれは何ら気にならないことなのだけど、問題はその後であった。
その人は「自分は本来はそんな小さなことは気にしないタイプなんだけど、自分がちゃんと(汚かったと)言ってあげることで、レストラン側が気をつけるようになって、自分のような嫌な思いを次の人がしなくて済むようにしたかったから、あえて言った」というようなことを言ったのだ。
何かがわたしのどこかに触れて、イラッときた。
細かなことを言うような器の小さな人とジャッジされたくないという思いがあって、その言い訳として「他の人に嫌な思いをさせたくないから」と言っているように聞こえたのだ。
汚いカップで飲むのは気分悪かったから。理由はそれだけで別にいいのに、と。
でも、これ、余計なお世話というか、要は自分にその部分があるから反応したのだってこともわかる。
で、そのあと、パカーンと来た。
このブログ、結局、「誰かの役に立つような内容を書かないと(価値がない)」と思ってる自分がどこかにいることに気づいた。
わたしが書きたいから書きたいことを書いている、理由はそれだけでいいのに、と。
いや、ブログだけじゃない。FacebookもInstagramも、投稿する前に「これって人に共有するのに値するか?」で自分をジャッジしている。
もちろん、自分が書きたいことを書いて、それが誰かの役に立つことが最終的には理想である。でも、まずは自分がそれを誰かに言いたい(書きたい)ってことを第一にしないと、自分が満たされていないことに気づかないで「あなたのために」と言いながら人に「してあげる」ことを押し付けてくる人たち(あ、書いちゃった)と一緒になっちゃう。

誰かのために、というのは、時として、自分のことを受け入れていない言い訳として使われる。何かを差し出すことで自分の存在価値があるようにしたいのだ。逆にいえば、何かを差し出さないと自分は存在価値がないと思っているってこと。
人によるんだろうけど、わたしの場合は「人のため」という言葉が出てきたときは要注意。わたしが「人のために」と言うときは、ただ自分を開く(さらけだす)ことが怖くて、人の目を気にする自分を正当化していることが多い。
まあ、さらけだして嫌な思いもしてきたから怖いのはしょうがない。けど、もう本当はさらけだして嫌な思いすることより、さらけださないで生きることのほうが嫌でもあるのだ。
自分がよろこんでいる状態で、そのよろこびを恐れなく人と共有できて、自然と波及していくのが理想だな。常に自分で在る、というのは難しいね。でも、それをめざす日々は楽しい。