自由への一歩
わたしたちは本来、どこまでも自由な存在だ。というのは、まず物の見方から入るといいと思う。
何をやっても自由という、行動の自由は受け入れられないとしても、何か起きた出来事やいまの状態をどう見るか、という物の見方の自由は受け入れやすい。
Aという状態を、よきものとして見るか、いやなものとして見るか、見方は完全に自分に委ねられている、つまり自由なのだ。
みんながよきものとして見ているAをいやなものとして見て、そんな自分をよしとするか、いやと思うかも、やっぱり自由だ。
同じことが人にも言えて、自分がよきものとして見ているAを、いやなものとして見ている人がいたとしても、それもその人の自由だ。
突き詰めると、ぜーんぶ自分で決めているということ。
ぜーんぶ自分の脳内で起こっているだけのこと。
経験からいって、人のことが気になるときほど、自分を見てあげたほうがいい。
わたしたちは、自分をしあわせにする物の見方を自由に選べるのだから。
自分をしあわせにする物の見方が本当か?正しいか?は気にしなくていい。何が本当で何が正しいかなんてわかりようがない。だって、結局自分の脳内を通してしか世界を見られないのだから。
だから、これが本当と自分が決めたらそれが本当なのだ。
そんなもんなのだ。