パートナーは自分だった!
久しぶりのプチ・パッカーン。
いきなり余談だけど、パッカーンというのは、急に自分のこととして腑に落ちた気づきのことで、よく心屋さんのブログで使われている言葉だ。
けれど、じつは今から15年近く前に、わたしの親友が使った言葉でもある。
オーストラリアにワーホリ(いまは結婚してオーストラリアで暮らしている)に行って、自分がどれだけいろんなものにとらわれていたかに気づいた彼女は、「パッカーン」って脳ミソが開いた、というような表現をした(動作付き)。それが面白くて、しばらく「(脳ミソ)パッカーン」は我々のトレンドワードだった。今や市民権を得ているが、わたしはいまもこの言葉のコピーライトは親友Kにあると思っている(笑)。
閑話休題。
わたしの相方は世間的にいい会社に務めるサラリーマンだが、長髪に髭、よい大学も出ておらず現地採用で、いわゆるエリートとか出世街道からはほど遠い。
わたしはそれで(いやむしろそれが)いいと思っているのだけど、彼はわたしや誰かと話すときにいちいち「世間的にはこっちがかっこいいとされるかもしれないけれど、俺はこっちが好きで」という言い方をするのが気になっていた。
なんなら、ときどき、苛立ってもいた。
「世間的にはこっちがいいのかもしれないけれど」。本当に自分の好きな方がいいと思っていたら、この一言は余計だ。それでも付けずにいられないのは、本人のコンプレックスとか、内面的な何かの反映だろう。そう読んでいたので、苛立ちを本人にぶつけることはなかったけど。
しかし、今朝、パッカーンときた。
相方がやっていることは、わたしがが自分でやっていることと一緒じゃん!
わたしの場合、宇宙の法則や意識の使い方といった「自分の中の真実」に準じて生きる選択をするとき、いちいち「今の一般常識とは違うかもしれないけれど、わたしはあえて違うほうを選ぶ」と言い訳のような言い方をせずにいられない。
わたしはわたし、それでいい、と本当に思っていたら、言い訳はいらないのに、せずにいられない。
なんで、言い訳がいるんだろう? 自分に訊ねると答えはすぐ返ってきた。
いや、あれは言い訳ではなくて、自分は(いまの段階では)つい世間の価値観や他人の意見に流されがちになるから、何度も言うことで自分を鼓舞しているのだ、と。
つまり、自分は自分の真実を本当に信じていて、それでいいと本当に思っているけれど、現時点ではまだ自分軸が弱くて他人に何か言われたらすぐにめげちゃうから、自分の本当を生きるために、毎度、自分(と周囲)に宣誓しているのだ。
そしたら、急に、自分も、相方も、かわいく思えた。わたしも、彼も、一所懸命、自分を生きようとしている仲間じゃん、と。
いつか、そう遠くない未来に、いちいち宣言しなくても自分を生きる選択をしつつづけることができるようになりたい。いや、なろう。