ぜんぶ、やりたかったこと。

この1週間、低気圧が停滞していて、波乗りができなかったので、出社前の朝の時間を瞑想にあてていた。

日によっていろいろな瞑想をやったのだが、昨日は内観の瞑想をしているうちに過去のつらかったシーンに意識が飛んでしまった。

夫を自宅で看病した最期の日々。彼が亡くなったその日のこと。もっと前、夫と出会ったばかりの頃に起こったあるつらい体験。

いまのわたしはそのときのわたしを舞台のワンシーンを見るように斜め上から見ている感じ。舞台は何度か切り替わって、順不同に、いろんな過去のシーンに飛んだ。

こういうふうにどこかに意識がいまでないどこかに行ってしまうのは「正しくない」瞑想なのかもしれない。でも、わたしは最近、「自分の気分がよければOK」主義なので、そのまんまタイムトラベルを続けた。

ずっと前、ふたをしていた感情を解放するワークとして、こういうことを何度かやったことがある。つらいときにつらいと言えなかった、泣きたいときに思うぞんぶん泣かなかった、というシーンを思い出して、いまのわたしが過去のわたしに声をかけてあげるワーク。

「つらかったよね」「泣きたかったよね」「よくがんばったね」と声をかけてあげると、過去のわたしが泣き出して、癒される。封印してきた感情を解放できるのだ。

今回の瞑想でも、意図せず過去のシーンに飛んでしまったので、何をしていいかわからなかったわたしは、とりあえずそうやって過去のわたしに声をかけてみた。

「つらかったよね」「うん」「泣きたかったよね」「うん」「よくがんばったよね」「だね」…過去のわたしからの感情はもうそんなに出てこなかった。それどころか、過去のわたしといまのわたしは「でも、全部やりたかったことだしね」と合意した。しかも、全然重たい感じじゃなくて、「やりたかったことだしね(テヘペロ)」みたいな軽さで。

誤解を招きたくないから書くけれど、夫に亡くなってほしかったわけじゃない。ただ、魂のレベルでいえば、これも夫とわたしの共同創造だったのだろうということ。

自分たちの意識の及ばない階層に、こういうことを体験したいという青写真がきっとあって、その青写真と一致する人たちと会って出来事を起こしている(共同創造)ってこと。

青写真は生まれる前に描いてくるのか、生まれてから無意識に描かれていくのか、そこまではわからないけど(でも、両方があるとはなんとなく思う)。

もちろん、夫が亡くなってすぐは、そんな風には思えなかったし、考えとしては理解できても、感情的に受け入れ難かった。いまだって、自分が自分に対しては言えるだけで、他人から「でも魂が体験したかったことなんだよね」ってテヘペロって乗りで言われたら、「あなたに何がわかるのだ」と思うだろう。

けれど、これから、自分に起こるいろんな出来事に対して、その出来事を体験している自分に対して、「まあ、結局、これ、体験したかったんだし」と言って、テヘペロって感じで終えられそうなのは、ちょっと楽しい。

で、なんで体験したかったかっていうと、「自分に戻るため」「自分を生きるため」。すべてはそれだけのために起きている(と思う)。

夫にかんしていえば、亡くなってしまって、それのどこが「自分に戻るため」「自分を生きるため」なのかって話になるけど、亡くなるのは体を持たなくなるだけで魂としてはまだ旅路は続くと考えたら、たぶん彼なりに自分を生きるを全うした結果なんだろう(と思いたい)。

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