シンクロのとらえかた

シンクロ…この言葉ほどあいまいに使っているものはないのだけど、わたしは「偶然(に見えること)の中に何かしらの意味を見出せる」出来事だととらえている。

誰かのことを考えていたときにその人から連絡があるというのはわかりやすい例。なんとなくぼんやりと考えていたことが思いがけず(自分としては何もしていないのに)現実のこととしてやってくるのもそう。

そんなシンクロがここ数日続いていて、おもしろい。シンクロが続くと、この調子で、ぼんやり考えている「そのこと」は形になってもおかしくないと信じられる度合いが高まるから。

宇宙からの応援のサイン。

実際には、わたしがシンクロと感じているほとんどのことは、人によっては「そんなの全然シンクロじゃない」というようなことかもしれない。偶然と片付けることもできるし、その出来事と、ぼんやりイメージしている「そのこと」と結びつけるのはけっこう強引で、「無理矢理シンクロにこじつけている」と考える人もいるだろう。

でも、そこがポイントで、結局、自分で決めてるんである。これをシンクロと思うことにするか、しないか。そして、思った方が楽しいから、わたしは思うことに決めた、それだけ。

お世話になっている川尻先生もよく言うけれど、それが「合っているか・間違っているか」「正しいか・誤りか」っていう判断基準は、あるようで、ないのだ。

それが本当に正しいなんて誰にも決められない、いや自分で自分に対して決めることはできるけれど、その正しさを他人に押し付けることはできない。それがまかり通るなら、その人の正しさを押し付けられたとき受け入れなきゃいけないという話になる。

だから、「正しい・正しくない」で判断する世界から飛び出す必要がある。多様性を受け入れるというのはそういうこと。

ただ、全てはまず自分から、なんだな。自分の正しいを、自分が受け入れたとき、他人の正しいを、その人の正しいとして受け入れられるのだと思う。

もっと言うと、自分がまったく知らないうちに自分を「正しい・正しくない」で裁いていると、他人も同様に裁くから(これを知らないうちに行っているから怖い!)、多様性の世界には飛び出せないということでもある。

でも、これからの時代、めざすのは多様性の世界、だよね。そのために始めるのはまず自分、なのだ。

経験はじゃまにもなるけど自信にもなる

ちょっと前に、気分の落ち込みやすさがあるのは、更年期のせいかもしれない、と書いた。

そのような仮説を立てて対策をしているうちに、漢方という手段を思い出して、当帰芍薬散を飲み始めた。

婦人科系のトラブルは、漢方だと血の滞り「お血」と言われて、日本では桂枝茯苓丸と当帰芍薬散がよく処方される。この2つの漢方薬は細かいことをいったらたくさん違いがあるが、大まかには桂枝茯苓丸は体力のあるタイプ、当帰芍薬散は体力のないタイプに向いていると言われる。

わたしはかつて子宮筋腫に悩まされていて、30代の頃、中国人の漢方医に診てもらったことがあって、そのとき、わたしのタイプは当帰芍薬散だと言われた。彼女(女医だった)によれば、中国人に比べて日本人は骨格が華奢な人が多くて、ぶっちゃけ日本女性はみんな「体力のないタイプ」と考えていい、というようなことも言っていた。

いまは、飲み始めて1週間くらいだが、すでに体調の改善、気分の改善を実感している。一番大きく感じるのは、睡眠の質の向上。夜中に一度起きてしまうことが多かったのが、この1週間は朝までぐっすりという日が多かった。

睡眠をよくするためにはバレリアンというハーブのカプセルを飲んでいたこともあるのだけど、昔飲んだときほどの効果は感じていなかった。いま改めて思うに、夜起きてしまうのは冷えがあったのかもしれない。だから、バレリアンより当帰芍薬散で変化を実感できたのかも。

「漢方薬は体質を改善する目的だからすぐには効かない」というような言い方をされることもあるけれど、わたしが学び、実際に体験した限りでは、体に合っている漢方薬であれば、なんらかのよき変化はすぐに感じられる。

ところで、当帰芍薬散は5年前の渡米直前まで飲んでいたのに、アメリカに来て、どこで探していいのかがわからず、しかもお金にまったく余裕がなかったために諦めたものの一つであった。

おかげで、車なし、まともな健康保険なし、データ接続できる携帯電話なし、クレジットカードも作れない(アメリカにおける信用がないから)という生活をしていた5年前のことを思い出して、あのときほしかったものがちゃんと手に入っているいまに気づけた。

余談だけど、子宮筋腫はあの後、ひどくなって、医師に「要輸血の貧血」と脅かされ、治療を受けた。これも思えば、症状がひどくなったのは、まともな保険に入れてからというタイミングでありがたかった。治療した結果、いまはなんにも気にせず活動ができるようになって、かつてつらかったことなど忘れていたほどである。

何か新しいことにチャレンジしたいときに、かつて失敗した経験がじゃまをして思い切れないこともあるけれど、逆にかつて成功した経験があると、似たようなことは「次もできる」と思えたりする。「なんかしらんけど守られている」と信じることができる。

別にいまあえてあのときの、40歳にして貯金を切り崩す生活、ほぼゼロからの生活基盤の構築ということをしたいと思わないけれど、あの経験は、「あのときできたんだからまたできる」という自信を持たせてくれたなあと改めて思うのだった。

知らぬうちに自分を責めている

前回に書いた直感の話で気づいたことだが、直感で選んで思う通りにならなかったときなど、結局、「なんでこんな選択をしたんだ」とちょいちょい自分を(無意識に)責めているんだなということも気づいた。

この間、穴口恵子さんがブログで、ワクワクでイケイケのときに、「自分にそんなことができると思っているの?」という声が出てきた話を書いていた。穴口さんでもそういうことがあるのか、とちょっとほっとしたのだけど、彼女はそういう自分の恐れの声を無視するのでなく、また無理矢理抑え込むのではなく、「へー、そんなふうに感じているわたしもいるのね」とだけ受け取ると書いていた。

つまり、批判しないということ。そんな恐れを持っていちゃいけない、と自分を責めない。そんな恐れがあるなんて自分にがっかり、と自分を責めない。

最近は以前に比べたらだいぶ自分のことを受け入れていると思っていたけれど、無自覚に自分を責めていることはまだまだあるなぁと気づいた次第。そりゃ、疲れるよね。自分で選んで、選んだ自分を責めて、ってやっていたら。

無自覚な自分否定、ときどきやっていないか、見直してみるのは面白そう。

直感を信じることの効果

本田健さんが、直感で動くことのいい点は、判断するまでに悩む時間を減らすことであって、直感が「当たる」「当たらない」ということは気にしていない、という話(こちらの投稿)にいたく感動したのでさっそく真似して実践中。すると今日、また気づきが訪れた。

今朝、出社前にサーフィンに行くとき、どのボードを持って、どのブレイクに行くか、ちょっと迷ったのだが、直感で決めた。ところが、選んだブレイクは駐車場が工事のために封鎖されていた。この5年間一度もなかったことである。駐車場以外の場所に車を停めて海に入ればいいと思って場所を移動して崖の上から波をチェックしてみたが、潮が引きすぎていて、あまりいい波ではなかった。しかも、よりによって手持ちの中で一番長くて重いボードを持ってきてしまったのでそれを持って崖をくだってまで海に入りたくはないなぁ、ということになった。

本田健さんの話を聞く前、つまりこれまでなら、「あー、判断間違えた〜」となって、「潮の満ち引きにあまり影響されないもうひとつのブレイクに行っていたら入れたかも!?」とか、「せめてもう一本の軽いボード持ってきたら入れたかも」とかごにょごにょ考え出して、自分が直感でくだした判断を恨みそうなところだったが、今日は、直感で選んだことが最善だって意図したんだから、なんか知らんけどこれが最善なんだろうと無理なく考えることができた。だから、イライラもしなかったし、判断を間違ったのではないかと自分を責めることもしなかった。

それで、やることがないので早めに会社に行ってメールを開いたら、わたしの大好きな作家がうちの情報誌で連載を持ってくれる話が進んでいるという上司からの連絡が入っていた。ひょー! 

その作家先生と自分とでは住んでいる世界が違い過ぎて、出会えるまでにまだ時間がかかりそうと思い込んでいたけれど、そうでもないんだ、と気分が上がった。

続いてプライベートのメールを開いたら、移民弁護士から「アメリカ滞在ステータスに関する必要書類が全部そろったのでサインしに来て」というメールも届いていた。これはこの先、何ステップもあるいろいろな手続きの最初の一歩でしかないのだけど、考えてみれば、アメリカにい続けたいと思っても、その最初の一歩の手続きさえできない人もたくさんいるのだ。わたしは恵まれている。

これらのことが、冒頭の直感の話とどう関係するかというと、わたしがいちいち「直感が当たらなかった〜」と自分のエネルギーを下げなかったことがポイントということ。

エネルギーが下がっていないから、起こっている出来事の中から、同じエネルギーの部分を見ることができ、自分にとってより良い現実を引き出した。つまり、最善が起こっている、ありがたい、という現実。

無理矢理ありがたいと思おうとしたんじゃない。そういうエネルギー状態だから自然にそう思えたのだ。

もし自分の直感が当たらなかった、サーフィンできたかもしれないのにやれなかった、というところに自分の気持ちがあったら、同じ出来事に出会っても、違う側面に共鳴していて、目の行くポイントが違ったはずだ。

たとえば大好きな先生の連載が決まったという話だって、「でもわたしは担当じゃないし、結局接点なさそうだし」とか、「本当は個人的に出会いたかったのに会社という縛りの中で出会うことになるとは」とか。

アメリカ滞在ステータスの件だって、考えようによっては、まだまだ何個もあるステップの最初の一歩というだけだから、「全然進んでない!」とだって言えるのだ。

でも、わたしは今回は全部ありがたく受け取った。これは、すごい。

最近、よくわかったのだけど、あらゆる感情や思考やいろいろは形になっていないだけで常に全部同時に存在しているのだ。けれど、自分が認識できる(形にできる)のは、その瞬間にフォーカスした一点だけ。どこにフォーカスするかは自分の意思で決められるけれど、実際には感情(エネルギー)と同調したところにフォーカスが当たる。だから、自分の意思と同じくらい、感情に注意する必要がある。

本田健さんのこの直感の話は、言い方を変えれば、常に最善なんだと世界と自分を信頼するということでもあるのだ。信頼しているからいい気分でいられるし、だから物事のいい側面のほうにフォーカスを当てられて、いい感じで回っていくという、しあわせに生きる知恵のひとつ。

こういうことをおしげもなく書いてくださっていることがありがたいし、そういうのをとりあえず信じてやってみるわたしも好き。ほら、いま、そもそもいい気分だから理由なき自己肯定感がはんぱない(笑)。

直感を信頼するってこういうことか

本田健さんのブログで、「直観力を高めるには」という質問に対しての回答が面白かった。

直観力を高めるには?

要約すると、本田さんは直観力が高いわけではなく、また高めようとしてきたわけでもなくて、単に直感で選択する生き方をしている、ということ。

AとBの選択があったとして、Aを選ぼうと、Bを選ぼうと、どっちであれ全力を尽くせば結果は出るもので、どちらを選んだのが正しい、間違いだというのはないから、本田さんはただ直感で選んだほうを全力でやる、ということを続けているだけだと。

この「全力でやる」が鍵だってようやくわかった。たとえば、Aを直感で選んで、なにか困難に遭遇したとき、「Aという選択が違ったのか?」と考えて「やっぱりBだったかなぁ」と試行錯誤してしまいそうだけど、とりあえずAを選んだんだからAをやりきってみればいいのだ。

本田さんも書いているように、「迷い」がエネルギーも時間も消耗していることがかなり多いのだ。直感で生きる生き方は、その迷いに使うエネルギーと時間が節約される、ということ。

そして、直感を信頼するということは、自分の直感は信じられるかどうかということではなくて、「そう直感で思って決めたから信じてやる」という自分の選択ってことですね。

自由への一歩

わたしたちは本来、どこまでも自由な存在だ。というのは、まず物の見方から入るといいと思う。

何をやっても自由という、行動の自由は受け入れられないとしても、何か起きた出来事やいまの状態をどう見るか、という物の見方の自由は受け入れやすい。

Aという状態を、よきものとして見るか、いやなものとして見るか、見方は完全に自分に委ねられている、つまり自由なのだ。

みんながよきものとして見ているAをいやなものとして見て、そんな自分をよしとするか、いやと思うかも、やっぱり自由だ。

同じことが人にも言えて、自分がよきものとして見ているAを、いやなものとして見ている人がいたとしても、それもその人の自由だ。

突き詰めると、ぜーんぶ自分で決めているということ。

ぜーんぶ自分の脳内で起こっているだけのこと。

経験からいって、人のことが気になるときほど、自分を見てあげたほうがいい。

わたしたちは、自分をしあわせにする物の見方を自由に選べるのだから。

自分をしあわせにする物の見方が本当か?正しいか?は気にしなくていい。何が本当で何が正しいかなんてわかりようがない。だって、結局自分の脳内を通してしか世界を見られないのだから。

だから、これが本当と自分が決めたらそれが本当なのだ。

そんなもんなのだ。