アメリカ移住の経緯(2)
(前回の続き)
祈りの答えがもたらされたのは、それこそ本当に祈りの儀式に参加していたときだ。
ネイティブアメリカンのビジョンクエスト。4日間、山に一人でこもって祈り、「ビジョン(使命)」をもらうというもの。ラコタ族からその儀式を執り行う許可をもらったというKさんを指導者として、日本人であるわたしも受けることができたのだ。
伝統的には何にも持たないで山に入るのだが、近年のものは、タープ(雨よけ)と寝袋と水だけ(食べ物はダメ)は持っていってよい。また、例外として、自分にとっての祭壇となるもの、およびビジョンを受け取ったときにメモするための筆記用具も持ち込みが許された。
これに参加したのは、わたし自身が心底「ビジョン」を「クエスト(探求)」していたからに他ならない。前回書いたように、アメリカに行きたいという気持ちはありつつも、どうしていいかわからなかったし、もっと言えば、夫がいなくなった世界でこの先どうやって生きていきたいかわからず、何ならすべて神に決めてほしいと思っていた。決めてくれたら、それをやるから、と。
山に入って何日めだったろうか。ひたすら祈り続けている中で、急に心の奥から声が響いた瞬間があった。あたたかくて愛に満ちていて、自分のものであるだろうが、自分とは思えないような声。
声は言った。
「まず、望みなさい。望みを持つことは悪いことではない。あなたが心から望むことは、魂の望みでもあるのです。だから、まずは望んでください」。
自分はビジョンを与えられることを望んでいたのだが、もし自ら望んでいいのなら、やっぱりアメリカで暮らしたい、そう思った。そして、その声にこう返した。
「望んでいいなら、アメリカで暮らしたい。けれど、方法がわからない。可能性が高そうなのは留学だけど、本当の望みはただ暮らしたいだけで、高い学費を払って勉強したい何かがあるわけじゃない。となると語学留学というのが手っ取り早いけれど、学生だとその間、稼げないし、今さら英語を勉強したいわけでもない」。
すると声がまた聞こえた。
「山を降りたらすぐにリサーチをすること。いま、あなたが想像していない方法で、行ける手段が見つかるはずです」。
これを書いているいま改めて振り返ると、「っていうか、その手段を最初から教えて」と突っ込みたくなるが、そのときは「行ける手段が留学のほかにあるのかも」と思えただけで心が踊った。
そして、山を降りてすぐ、インターネットで検索しまくっているうちに、以前オーストラリアに移住した親友を訪ねたときに、現地の日本語情報誌を見たことを思い出したのだ。
日本語情報誌だから当然、日本人が作っている。そのような場所なら15年近く編集ライターをやってきていることが強みになって、雇ってもらえるんじゃないか?
出版、広告の世界にはもうほとんど興味がなくなっていて、再び戻りたいとは思っていなかったのだが、アメリカで暮らせる手段になるなら話は別だ。
調べているうちに海外転職をサポートする専門のエージェントがいることも知った。それが2013年の秋頃の話で、エージェントに頼んでトントン拍子に話は進み(多少の紆余曲折はあったけど)、その翌年の春に引っ越してきた。
当初はシャスタの近くを望んだのだけど、実際にはサンディエゴに落ち着いて、シャスタはちょっと遠のいたかわりに、サーフィンざんまいができている。

夫は亡くなる前に、言ってくれていた。「君が当面の間は生きていけるお金は残す。でも、次に生きていく場所が決まるまで暮らせるくらいの額だけだよ」。
よく、そのようなお金は使えなくて取ってあるという遺族の話も聞くのだけど、わたしは夫が志半ばで断念したツリーハウスの完成に使ったりしたほかは、「次に生きていく場所が決まるまでの暮らし」に使わせてもらった。
結果、アメリカに来る頃には、わたしがもともと貯金していた額だけが手元に残っていた。
彼は自身が言った通り、わたしが次に生きていく場所が決まるまで養ってくれたのだ、と思った。
かっこいい人だったんです。
この先、今生ではもう会えないことを思うとき、寂しくなることはいまも変わらないけど、彼亡き後、わたしがアメリカに流れ着き、たくましく図太くこの世界で生き延びていることを誇らしく思ってくれているだろうと信じている。