エネルギーで見る選挙
忙しくて川尻先生のブログのほうが全然アップデートできていないのだが、溜め込んでいるだけで先生との取材は定期的にしている。
先生と話すと気づきがいっぱいで、いつも大事なことを思い出せる。この間会ったときは宝くじの話が面白かった。
人生で一度も宝くじを買ったことがない先生が、どこかの店で別の買い物をしていたとき、宝くじの当せん総額が上がっているという店内のチラシを見て「ふと」買いたいと思って、一枚買ったそうだ。
当せん発表は翌日。「もしかして当たった?」と聞いたら、「当たらん」と苦笑い。でも、「そこや」と先生。「みんな、当たったか、当たらなかったかを気にするやん? でも当たらなかったなら買わなくてもよかったってことではないねん。ふと買いたいと思った、その欲求を満たした、そこが大事だし、それでもうオーケーやねん」。
ああ、そうだった。我々はAという行動をしたら、Bという結果になるといいと期待する。Bという結果にならなかったら「Aをした意味がなかったんじゃないか」と疑い、「Aをした意味はこうだ」と何かしら理由を見つけて自分なりに納得する。けれど、そうじゃなくていい。
そもそもAをしたいのか、否か、それが全て。Aをしたかったのだとしたら、そのしたいことをした、という時点で花マル。したいことした、といういいエネルギーを出したことが、大事だし、もっと言えばそれが結果だ。
逆に言うと、したいことをしたのに「してよかったのかな」と考えてしまうのはもったいない。せっかく望むことをしたのに、いいエネルギーを出せなくなっちゃう。だから、「やりたいことした自分、えらい」と声をかけてあげるといい。したいことをした結果、当たらなかったということで、しても意味がなかったなんて思うのはエネルギーの高揚を落とすだけだ。
そういう視点で見ていくと、この度の日本の選挙も、結果そのものより、選挙期間のみんなのエネルギーというものに意味があったのではと考えることができなくもない。だから、結果について云々と語り合って、「結局政治は変えられない」などと思うより、自分がどういうエネルギーであったか、そしてこの先、どういうエネルギーであるか、で政治というものにかかわる視点を持ってみる。
これは政治だけでなくて仕事とか日常生活の全てのことにおいて言える。自分がいまどういうエネルギーかに注意する。エネルギーに良い悪いはないから、たとえば怒りのような、一見ネガティブなエネルギーであったもいい。それを自覚して「怒っている」とちゃんと受け入れたらその時点でそのエネルギーは平穏な状態になる。要は自分の中にバトルがあるかないか、なのだ。
犬はそのエネルギーにすごく敏感だなぁと最近つくづく思う。ペットに癒されるのって、ペットのおかげで自分のエネルギーに敏感になるからかもしれないなぁという仮説まで生まれたのであった。