王子と姫

腹筋に筋がほしいなぁとふと思って、毎日10分程度のトレーニングを始めて1カ月くらいかな。筋はうっすらと見えてきてうれしく、途中から二の腕のトレーニングも組み込むようになって、そしたら楽しくなってきたものだから食生活も変わってきて、自分の体がイメージ通りに変わってきていることを実感している。

わたしは昔から「体」が大好きなんだけど、それはきっとこういう風にイメージしたことの現実化が速くてわかりやすいことが楽しいからじゃないかと思う。自分の体なら人を巻き込まなくていいし。逆に言うと人を巻き込むことについてはすぐにうまくはいかないこともあるという抵抗が自分の中にまだあるってことだろうけど。

誰だったかな、自信というのは自分を信じられるということだ、と言っていた。

もちろんいきなりなんの根拠もなく自分を信じることは難しいから、自分を信じられるようになるために自分を信じられるようになる経験を積むのだと。

自分を信じられるようになる経験というのは、自分との約束を自分が守る、ということ。

トレーニングとか、ハードルの高いことじゃなくてもいい。たとえば、今日は1日自分をいい気分にしてあげようと決めたら、それを守る。嫌なことがあったらいい気分になることを探して自分に与えて、自分が受け取ることを許可する。

自分にしてあげることと、自分で受け取ること、その両方があることが大事。せっかく与えても、本当の意味で受け取れていない(「こんなに甘やかしていいのかな」とかいう謎の罪悪感を抱くとか)と信頼関係は深まらない。

今回の筋トレも、姫のわたしが、無邪気に「あんな風に筋の入ったお腹がほしい♡」と言うもんだから、王子のわたしが「さすれば、与えてあげましょう」と地味に筋トレをする。そして姫が「素敵♡ 王子はわたしの望みを叶えてくれる♡ また何か思いついたら王子に頼むわ♡」というようなことを一人でやっているわけです。

自分との信頼関係の築き方はもちろん人それぞれあると思うけど、わたしはこのひとり王子と姫ごっこがすごくワークする。よかったらぜひやってみてください。自分で自分を満たせるからどんどんエネルギーが満ちてきます。

完璧をめざさなくて完璧である

いやはや、書くというのはかなり瞑想と近いんじゃないかなと改めて思う。モヤモヤしていることが言葉になることでまず形が見えるし、吐き出したその形を客観的に見ることで自己対話になる。

というのも、ひとつ前の投稿で、子犬の世話に追われるてんてこまいの日々について愚痴ったうえに、この「全ては自分だってわかっているんだけどどうしていいかわからない不満感」というトンネルを脱出する鍵を探したいと書いたところ、その直後、通勤する運転中に鍵が見つかった。クリアになった頭に、すっと言葉が降りてきたのだ。

「全てを完璧にやろうとすることをやめればいいだけだ」

もっと言えば、わたしが『こういう行動をしたら完璧』と思ってやっていることが必ずしも完璧ではないということ。むしろ『こういうことができないと完璧じゃない』とわたしが思ってしまう状態でさえ宇宙的な視点で見たら完全である。それを受け入れること。

今回のことで何が勉強になったかというと、どんなにてんてこまいでも自分と対話する時間を作ることが大事ということかな。忙しくて自分を見失いそうなときほど、自分を見失わないような時間を確保しようと改めて思った。長い時間じゃなくていいんだ、たとえば、ちょっと深呼吸する時間を持つとか、そういうことだ。

仕事があってよかった ?

仔犬を育てることと、子育てを一緒にしては怒られると思うが、それでも仔犬を育てることで、世のお母さんたちの気持ちというのがほんの少しだけど今までよりリアルに想像できるようになったかもしれない。

たとえば、朝の散歩は朝に強いわたしが担当するから、夕方の散歩はよろしくね、と相方と約束したのに、結局、彼の仕事が忙しくて夕方に帰ってこられない。仕方ないのでわたしが散歩に出るわけだが、それでさらに夕飯を作るのもわたし、夕飯の片付けをするのもわたしかよ、という不満がどうしても出てくる。わたしだってフルタイムで働いているのに。朝家を出るのは相方より2時間も早いのに。

さらに不満に思うのは、こちらは留守番や空腹で興奮して世話のやける仔犬を落ち着かせ、我が家のルールを教え、てんてこまいで1日が終わりそうと言うのに、相方は全てが終わった頃に帰ってきて、お腹も満たされ運動欲も満たされておとなしくなった仔犬と接して「おー、よしよし」といいとこだけ取っていくことだ。

優しい相方に尾っぽを振ってすりより、はしゃいでいる仔犬を見ると、さっきまでしつけやトレーニングと思って仔犬に少し厳しくあたっていた自分が、なんだか悪いことをしていたような気持ちにさせられるし、「エサもやり、散歩もやって、結局、これか…わたしはいったいなんなんだ」という徒労感に襲われる…。

というようなことを経て、夫婦と子どもは家族になっていくんだろうなぁ。

おそらく、いま、自分の操縦席を仔犬に譲っちゃっているから、不満なりきつさが出てくるんだよな、とわかっているのだけど、誰かの手を借りないと生きられない、なのに言葉が通じない、けれど全力で自分の欲求を表現してくる小さな生き物を目の前にしたときに、その子を自分の操縦席に乗せないようにすることは、想像していたより難しい。

言いたいことがあれば言えばいいという相手じゃないし、放っておいてもなんとかなるという相手でもないので。いや、ほんとうは放っておいてもなんとかなるところをわたしががんばっちゃっているのかな。などなど、次のレベルのお試しがきているなぁ…。

ちょっと前「働くお母さん」をテーマに、一般の働くお母さんたちをインタビューした特集を担当したときに聞いた話を思い出した。

働きながらの子育てはいろいろ大変と思うが、何人かが「仕事があることで子どもと離れる時間があることは精神的に助けられてもいる」というようなことを言ったのだ。

それと同じことをいま自分も感じている。仕事があってよかった。まあ、仕事じゃなくてもいいんだけど、ようは、誰に(一番は自分にだけど)言い訳しなくてもいい逃げ道があることに助けられているということなんだろう。

仮説だけど、逃げ道があったほうがほっとする人というのは、わたしのように簡単に操縦席を譲っちゃうタイプなのかもしれない。操縦席を譲らずに子どもと接することができる人は、もちろん多少のストレスはありながらも、ずっと子どもと一緒にいることがそこまで苦でなくできるのかもしれない。なんてことも考えてみた。もちろん、みんなそれぞれで、何が正しくて何が違うという話ではない。どちらがえらいということでもないと思う。

まあ、なんであれ、わたしをしあわせにするためにしか物事は起こらないということはもう確固として思っているので、本当に不満で苦痛というのではなくて、単純に、はて、この状態の攻略の鍵はどこにあるのかしらと探っている感じ。さてさて、鍵はどこだろう。単純によく眠れたらそれでオーケーみたいなことだったりもするよね。

ものごとには時がある

仔犬の予防接種もほぼ終わり、少しずつ、家や裏庭、家の近所以外へと犬を連れて行く範囲を広げている。生後5カ月の彼にしてみたら「生まれて初めて見る」ものがほとんどだろう。他の犬、鳥、トカゲ、うさぎ、スプリンクラー、高速で行き交う車…。彼の貴重な人生初、いや”犬生初”の内容と質、後天的な性格の形成は、飼い主であるわたしたちにかかっていると思うと、シャンとした心持ちになる。

亡くなった夫と一緒に暮らし始めたとき、彼の愛犬はすでに2歳だったので、わたしは仔犬の頃を知っているわけではなかった。そこそこの年齢の犬(しかもトレーニングされている犬)と暮らすのと、仔犬と暮らすのは、また違うのだという、当たり前のことを今回学んだ。

わたしは出産をしておらず、子育ての経験もないので、きっと仔犬を育てることを通して、これまで足りていなかった何かを学んでいるんだろう。

正直に言うと、いろいろなスピリチュアルジャーニーを経て、自分のことを大切にできるようになった、いま、この年齢だから、イライラせずに、忍耐を持って、そして相手、つまり犬にも敬意を抱いて、仔犬を育てられている気がしないでもない。

もうちょっと若いときのわたしだったら確実にもっとイライラしていたと思うのだ。そのイライラは、自分の本当の気持ちを大切にしていないからだということもわかっておらず、ただ、「なんでわからないんだ」とか、「犬のせいでやりたいことができない」と思ってしまっていた可能性が高い。

ものごとには時がある、とはよく言われるけれど、本当にそうだと思う。きっと、相方とわたし、ともに何か準備ができて、だから、仔犬がやって来たんだろう、と。

うちに来てくれて、ありがとう。愛情と、リーダーシップ、両方をちゃんと見せられるよう、わたしも学びながら、がんばるよ。

幸福ホルモン

数日前の投稿で「なんだか急に満ち足りちゃって」と書いた(こちら)。本当に急に満ち足りた気持ちになったわけだが、その理由がわかったかもしれない。これはあくまで仮説だが、この満ち足りた感じは、犬を飼ったことで、幸福ホルモンと呼ばれるオキシトシンが出まくっているせいなのではないか。

オキシトシンとは出産授乳にかかわるホルモンとして知られてきたけれど、犬と飼い主が触れ合うことでオキシトシンの分泌が増えるという研究結果が数年前に発表されている。オキシトシンというのはストレス反応を抑え、人と関わるなど社会性を育む作用があるようだ。

別にオキシトシンの分泌を増やしたくて犬を飼ったわけじゃないけれど、この説明のつかない多幸感はホルモンとやらから来ていると言われたらそうに違いないと思える。ジョギングやサーフィン、太極拳、ヨガの後の多幸感と似ているけれど、それらは「何かをやった」感覚があるから、因果関係がわかりやすいのに対して、犬を飼ったことの多幸感は犬がなにをしたからというわけでないので、一見わかりづらくて気付かなかった。

しあわせって、やっぱり感じるもので、しあわせを感じるためにはしあわせホルモンが出るようなことをすればいいだけなんだな。いや、もっといえば、「する」必要もなくて、しあわせホルモンが出るようなことを「選ぶ」だけでいいのだ。謎めいた言い方になるけれど、まずは「選ぶ」ができないと、「する」もできないような気がする。

我が家の法律を決める

仔犬が来てからというもの、仕事のある平日の早朝にサーフィンをする回数が減った。そのかわりに寝ているかというともちろんそんなことはなくて、朝まだ暗いうちから仔犬と遊んでいる。

起きて一番はトイレの可能性が高いので、まず裏庭に出す。うちの裏庭の向こうはちょっとした丘になっているので、静かな朝に佇んでいると、どこか避暑地に遊びに来たみたいな錯覚に陥る。

先日は、コヨーテが悠々と横切っていくのが見えた。スカンクが狙われたようで、その後、強烈な悪臭が漂っていた。

鳥のさえずり。犬を警戒しながら、でもけっこう近くまで果敢にやってくる野うさぎ。明けていく空。遠くに聞こえる車のエンジン音。

そんな中、仔犬を見守りながら、コーヒーを飲む。好奇心とエネルギーの塊の仔犬は意外なものに興味を示したかと思えば、意外なものに興味を示さなかったりして、興味深い。

この3週間の間に、我々と仔犬は少しずつ互いを知って、ひとつの小さな「群れ」を形成しつつある。我々が望む「群れのルール」があるけれど、犬が望む「群れのルール」もあるだろうから、互いにどこまでが許されて、どこからが許されないかを決めていっている。我々と犬の間だけでなく、相方とわたしの間でもたくさんの話し合いがなされた。

相方とわたしは、40代で出会っているので、それぞれ独立しているパートナーが一緒に住んでいるという感覚だったけれど、仔犬が来たことで、ちょっと家族っぽくなったように感じる。それまでは互いに何をしても、いい大人がしたくてしているんだからとほとんど干渉しなかったが、我々がそれぞれ違う判断基準で仔犬と接することは仔犬を混乱させてしまうから、我々も何がよくて、何はやめよう、ということをきちんと言葉にしてルールを規定していっている。

たとえば、仔犬が今後接するのは圧倒的に英語が多いはずだから、我々もコマンドや犬に話しかけるときは英語を原則とする、とかね。

ルールを規定するというとなんだか堅苦しいけれど、つまりはうちの家族がしあわせであるためにみんなが守ることを、みんなで話し合って決めている、ということ。

地域や国の法律も、本当は「みんながしあわせになるためにみんなで決める」が民主主義の出発点なんだよなぁと改めて実感した。でも、なかなか理想通りにいかないのは「みんな」があまりにも多すぎるのかな。