8.22.2019

Twitter初期にはアカウントを持って比較的よくつぶやいていたのだが、夫を亡くした後にアカウントを削除した。そうしたくなったからしただけなんだけど、それによってTwitterでは友だちというくらいよくやりとりしていたのにいまはどこで何をしているかまったくわからない人もいれば(そもそも本名も知らない)、もともとは知り合いではなかったのにTwitterをやめた以降も他のSNSでゆるくつながっているという人もいる。
つながる人とはつながるのだ。
というようなことを、いま言い聞かせるように書いているのは、いよいよFacebookをやめたいという気持ちが大きくなってきたからだ。
FacebookはTwitterと違って本当の知り合いとつながっていられる場で、「友達」の仲には、頻繁には会うことはないけれどつながっていたい知人や恩師がたくさんいる。だから、Facebookはわたしにとって昔の年賀状みたいな役割を持っている。めったに会わないけれど年賀状のやりとりだけは続けることで近況のアップデートが少なくとも1年に1回できるし、年賀状だけでもやりとりがあれば、たとえ20年ぶりくらいだとしても直接会うことへのハードルは低くなる。年賀状のやりとりをしなくなったいま、Facebookを失うことは怖いというのは大げさにしても、いちまつの寂しさや躊躇はやっぱりある。
というわけで、自己対話を続けているのだけど、どうもわたしにはとにかくやめてみたいという気持ちがあるのは本当。そもそももうほとんど使っておらず、見ることもしていないので、やめたも同然じゃんとも思うのだが、心の声は潔くやめたいと言う。いやいや、待って、近しい友だちは(Facebook関係なくつながっているから)いいとして、AさんやBさんとやりとりできなくなるのは寂しくないか? え、「やりとり」なんてそもそもしてないじゃん、たまに投稿見るくらいで。いやいや、よく考えてみ? そもそもAさんもBさんも最近、たいして何も投稿してないじゃん? それなのにやりとりがなくなるの寂しいってないない! と自己対話という名の自問自答を続けて数週間。ここへきて、やめたいという心の声に従った先に広がるものを見てみたい気持ちが増している。
で、いろいろ調べてわたしが見つけた案が、アカウント削除(退会)ではなく、アカウントの利用停止というもの。心の声は「潔くやめたい」と言ったけれど、 Messangerしか連絡先を知らない人がけっこういるから、その人たちとの連絡窓口をなくすのは嫌というのも心の声で、両方を叶えるのは利用停止のほうかなと。
誕生日が近いので誕生日をXデーにしたら気分いいといまのところ思っているのだけど、さて、どうだろう。まだもう少し時間があるので、自己対話を続けてみよう。
私も何度アカウントを消そうと思ったことかわかりません。しばらく悶々と考えて、消さない代わりに人の整理をしました。ちょっとさっぱりしすぎたかな?と思ったけれど、後悔していません 🙂
LikeLike
人の整理をしたの、すごいですね。そういう選択もありますね。と言いつつ、わたしはそこにはまだ踏み込めそうにないかも…。
LikeLiked by 1 person