8.9.2019

川尻隆先生にいろいろ聞くブログ「川尻先生!ホリスティックヘルスって何ですか?」を更新しました。

第9回のテーマはずばり「疲労感が続くときに、見直すこと」。

川尻先生によれば、疲労も痛みも、症状も病気も、さまざまなインプットを脳がプロセスした結果のアウトプットであるので、できることはインプットを変えることしかありません。なので、胃痛でも、腰痛でも、疲れでも、どんな症状について聞いても、結局、最終的には回答ははいつも同じになります。インプットを変えろ、と。

インプットを変えるというのは、具体的にはいろいろあるけれど、まず大事なのは、現状の中から「ポジティブに受け止められることを見つける」こと。すなわち、どんな状況においても、自分がちょっと気分がいいということを探して見つけて、いい気分になる、ということ。これはスピリチュアルな、たとえば引き寄せの法則などでも言われていることですが、川尻先生はそれを脳神経学として説明してくれます。

いいことを見つけようとすると脳がそのように動き始めて、神経ネットワークが変わる。神経ネットワークのつながり方が変われば、出てくるアウトプットが変わる。

にわかには信じがたいですが、2016年秋に胃潰瘍をやって以来、時々出てくる胃痛に悩まされていたわたしは、先生のインプット・アウトプット・プロセスの話を聞いて、腑に落ちて、あんまり心配せず、いま気分がいいことを見つけるということを徹底するようになって、いつのまにか胃が痛くなくなることがなくなりました。

とはいえ、自分も経験があるので、症状が強く出ているときに、いいことを見つけようとするのは大変だということもわかります。そういうときは、そのレベルで、気分のいいことを見つけるのでいいのです。薬を飲んで痛みが取れたらラクになるなら、飲んでいい。人を恨んで毒を出してすっきりするなら、それもいい。泣いてもいい。

ただ、何が気分がいいかは、そのときによって違う。薬を飲んでラクになりたいと思うときと、それより飲まないで寝たほうが気分いいと思うとき、悪態ついたほうがほっとするときと、悪態ついている自分がイヤになるとき、などなど、自分の心を細かく見ていくと、毎回違うはずなのです。その毎瞬毎瞬で異なる自分の心の奥の声にどれだけ繊細に気づけ、どれだけ正直に動けるか。それはしあわせの鍵であり、また健康の鍵でもあるのですね。

いま着てるその洋服は心地良いですか? いましているその姿勢はラクですか? 仕事とか人間関係とか人生とか大きなことに取りかかる前に、見直せる身近なところはこれまた驚くほどいっぱいあります。その身近なことを丁寧に見直していくと、いつのまにか大きなことが変わっているものなんだなぁ。

8.8.2019

今朝、サーフィンに向かう道中、前を走る車のナンバーが8(英字)888だった。そのくらいなら珍しくないけれど、1時間ほど波乗りをして海を上がり、着替えて会社に向かって車を走らせたら、なんと朝と同じ車が目の前にいた。もちろナンバーは、8(英字)888。

で、会社に着いてパソコンを開いて、定期購読している数名のブログを読んだら、何人かが「ライオンズゲート」について触れていた。ああ、そうか、今日はライオンズゲートと言われる日だ。ん? てことは、8月8日じゃん。そこで、さすがに、うぁお!となった。888888! 8づいている。

でも、最近はそれだけ。え、この意味はなんだろう? どういうメッセージだろう?と、いちいち深追いしない。「なんか、いい感じ♡」でOK。このあと、何かいいことがあったら、「あー、やっぱり、8をいっぱい見たのはそういう意味か」ってあとから意味付けすればいいし、特に何もなくても「なんかいいことありそう」という状態にわたしが「ある」ということがすでにメッセージなのだ。

8.5.2019

最近、久しぶりに一眼レフカメラを取り出してきているのだが、おかげで自分は「ファインダーを覗いてシャッターを切る」という行為が好きなのだなぁと改めて気づいた。

この広い世界の中で、わたしが自分の目で見られる世界は本当に狭いものだけど、ファインダーを覗くとその視界はさらに狭まって、耳で言うところの余計な雑音が完全にシャットアウトされて、目の前に広がる小さな世界に入り込める。液晶画面で構図を決めてシャッターを押す場合は、液晶画面の外にもたくさんの情報があるから、なかなかそこまで入り込めない。その違いを今さらながら体感している。

結局、我々は、自分の見えることしか見ていない。何が見えるかはどこに焦点を合わせるかで決まる。どこに焦点を合わせたいかは自分の意思で決められる。そういう人生的な教訓と、一眼レフの写真撮影は、何か通じるところがある気がする。

いまから15年くらい前、亡くなった前夫と付き合ったり、別れたりを繰り返して、ちょっとしたうつ状態と言われて抗うつ剤を飲んでいた頃、休日になるとよくフィルムの一眼レフを持ち出して、写真撮影に出かけた。何もすることがない休日、でも家にいたら精神状態がよくなくなることがわかっているから外出はしたい、かといって人と会うと疲れるだけだし、一人で何かしても孤独感が増すだけだし、何がしたいわけでもない、という状態で、カメラを持っていればぼんやり一人で歩いていても「カメラ女子」とカテゴライズされて、他人の目を気にしなくて済むような気がして、都合がよかったのだ。

あの頃は植物ばっかり撮っていた。あのとき、ファインダーを覗いて、美しいものだけを視界に入れて、それ以外のものをシャットアウトする時間を持つことで、わたしは無意識に、けれど本能的に、生き延びようとしていたのではないか。同時に、あんなつらかったときでも、泣きながらでも、世を恨みながらでも、懸命に美しいものを探そうとする、その強さを自分は持っていたということにしみじみ感動する。15年後のわたしから褒めてあげたい。ほんとうに、よく、がんばりましたね。

8.3.2019

5歳だと聞いて引き受けたラブラドールのエリー。ずっと待っていたメディカルヒストリー(病気や予防接種の履歴)を昨日ようやく受け取って、なんとじつは5歳ではなくもうすぐ8歳であるとわかった。なんともいい加減なアメリカ”あるある”と苦笑い。しかし、受け取るときに書類を全部見たいと言わなかったわたしたちにも落ち度はある。

8歳とわかったからと言って、事前の説明と違うからと言って、エリーを返すつもりはもちろんない。けれど、もし最初から8歳とわかっていたら、会いに行く(里親になることを検討する)ことはなかったと思うので、これもまたご縁なんだろうな。

ラブラドールの平均寿命は10〜14歳と言われているから、8歳といえばもう立派すぎるくらい大人だ。つい先日までは子犬のユパの成長に日々のはかなさを感じていたけれど、今度はエリーとともにいられる時間の短さを想像してはかなさを感じている。

昨日は、LAカウンティーにいる、相方の友人のお宅にお呼ばれして、犬を連れて行ってもいいと言ってくれたので、2匹と2人で初めて長距離ドライブをした。お気に入りの音楽を聞けるようにちゃんと仕込んで、長旅の間に必要と考えられる犬のための道具をそろえて、と準備しているうち、亡くなった夫とオセロと、山梨県にあるツリーハウスの土地までドライブで通った時期のことを思い出した。

あれは、楽しかったなぁ。その日々がもう戻ってこないことを考えるとき、いつもなんともいえない気持ちになる。けれど、いまも楽しい。彼がもういないことはさみしいのだけど、一方で、最近は、憧れに憧れて、そもそも結婚など無理に近かった人と、彼が亡くなる前の数年間を共に暮らして、彼の家族にもよくしてもらって、ぬくぬくとあたたかい思い出をたくさん作れたことはむしろ神様からのプレゼントだったのだとも思ったりする。

8.2.2019

うちのバックヤード(裏庭)の向こうには裏山がある。その裏山にはところどころに民家があるものの、辿って行くと、市が管理する巨大な自然公園とつながっている。

そのためかコヨーテの姿を見かけることは度々あったのだが、今朝、コヨーテかと思って目を凝らしたらヤマネコだった。クーガー、ピューマとも呼ばれるマウンテンライオンかと色めき立ったが、あとから冷静に判断すると、サイズから考えてボブキャットという小型のヤマネコだったと思う。

そのボブキャットは裏山の高いところから威風堂々とした足取りで下りて来た。わたしは家の中にいたので、写真に収めるためにバックヤードに出ようかと一瞬考えたが、ボブキャットが気づいて逃げてしまうか、あるいは犬たちが飛び出して大騒ぎするか、どっちにしてもいい写真を撮れる可能性は少ないと判断して、窓越しに静かに観察した。

ボブキャットは裏山と我が家のバックヤードの境にある柵のところまで悠々と歩いて来て、中を覗き込むようにしたが、すぐ去って行った。犬の匂いがしたのかもしれない。

自然が豊かに残されている場所に住むと、こんな風に、いろんな動物と共存しているのだということを否応なしに思い出させてもらえるのがいい。人間が密集する都会は自分たちの都合のいいように開発されているから、よほど意識的でないと我々は地球を棲家とする動物の一種に過ぎないということを忘れやすく、ゆえに傲慢になりやすい。

早朝、まだ日の出ていないバックヤードに犬たちを離すと、彼らは昼間のようにはしゃいで駆け出すことはせず、まず裏山に顔を向けて匂いを嗅いでいる。暗闇に沈む裏山は、この時刻はまだ人間の世界ではないから調子に乗らないようにと忠告しているような独特の雰囲気があるって、畏怖を感じる。

ずっと海の近くに住みたいと思っていたが、この環境で暮らせているのはありがたいと思うようになった。犬を飼ったおかげか、年を取ったからか。

8.1.2019

テリア系の犬はこれまで飼ったことがないので、わたしにとってユパ(犬の名前)はいろいろ奇想天外で楽しい。子犬でまだ関節が柔らかいからかもしれないが、わたしから見ると15センチもないようなタンスの下の隙間にまるで猫のようにもぐりこんでしまう。出てこられなくなってクンクン鳴くのだけど、ここに入ったらそうなると学んだほうがいいと考えてしばらく様子見を決め込んでいたら自力でバックで出てきて、バタバタっと体を振って、何食わぬ顔でわたしの横にやって来た。

わたしが2階にいるときはだいたいそばにくっついてくるのに、突然1階に行って戻ってこなかったので怪しいと思って見に行くと、わたしの腰くらいの高さはあるエサ入れのフタを開けて中に入ってこの世の春とばかりに貪っていた。最初から1階で涼んでいたラブラドールのエリーが、2階から降りて来たわたしを認めて「ヤツはやってますけど、わたしは叱られるってわかってるから我慢してましたよ。わたしのことは怒らないよね?」というような顔つきで見ていたのもかわいかった。

日本で義理のお父さんと暮らしているラブラドールのオセロは、散歩中に松ぼっくりを見つけるとかぽっと咥えて、ガジガジと噛んで、ぽいっと捨てるのが好きだった。けれど、いつのまにかそれをしなくなったと気づいたのは夫が亡くなってからだ。ユパもいまでこそ毎日大変だけど、いまのようないたずら(本人にとってはいたずらじゃないだろうが)をいつのまにかしなくなるのだろうと想像すると、いまこの時期がうざったくても愛おしい。

1日1日が貴重である、同じ1日は二度とない、ということを、亡くなった前夫が病気のときはリアルに感じていて、だからこそ毎日全開で暮らしていた。彼が亡くなった後もしばらくはそうだった。でも、差し迫る理由がなくなったおかげで、少しずつその感覚を忘れていた。昨日より今日、今日より明日とわかりやすく成長する小さな生き物は、わたしにそれを思い出させてくれる。