9.29.2019

昔ながらの伝統的なサーカスというものを見に行ってきた。

昔ながらの伝統的なサーカスというと、空中ブランコや、ライオンの火の輪くぐりなどが思い浮かぶけど、そういえばそういうものの本物をライブで見たことはなかったなと、イタリアのZoppeサーカス一座がサンディエゴに来るという情報を見たときに思って、すぐにチケットを買ったのだった。

ライオンこそ出てこなかったけれど、空中ブランコに綱渡り、中国雑技団もびっくりの曲芸の数々で、2時間はあっというまだった。会場が、特設された小さなテントというのもいかにもで、よかった。

どの演目もすばらしかったけれど、一番心に残ったのは、サーカス団長が道化師となって、ところどころに出てきて場の空気を保たせたり、変えたりすることだった。

これまたクラシックなのだけど、途中で、道化師が自分の帽子を見失うという演技をした。当然観客には帽子のありかが見えるので「上!上!」というような声が子どもたちから上がる。あ、なんか、これ覚えがあるぞ、と思ったら、「8時だよ!全員集合!」のドリフターズのコントであった。「志村、上、上!」ってね。

大人になった我々には演技であることがわかるのに、それでも水戸黄門の印籠みたいなもので、わかっていても面白いし、わかっているからこそ演技や仕掛けのすばらしさがわかって感動さえしてしまった。

道化師のおかげで観客の子どもや大人たちも巻き込まれて、ショーを見るというより、一緒に作り上げていく一つのライブクリエーションであった。道化師って比喩としてよく使われる表現だけど、本物の道化師の仕事ってこういうことかと初めてわかった気がする。

9.11で息子を亡くしたお父さんを追ったドキュメンタリーを見たことがある。お父さんが事件の後したことは、手品を習うことであった。手品なら言葉がわからなくても、どんな環境でも、子どもたちを笑わすことができる。お父さんは、命の尊さとか、政治だとか宗教だとか、何が正義かとか、そういうことを語ったり訴えたりすることより、誰かを笑わせることを選んだということに、心が動かされた。道化師を見てそのことを思い出した。

テントを出た後は、サンディエゴには珍しく、雨が降っていた。けれど、みんな不思議な高揚感に包まれていて、雨さえも余興のようで、あたたかい気持ちで家路についた。

9.27.2019

夫がまだ病気でなく、我々は結婚していなく、もっと言えば距離を置いていた頃の話。

気乗りしなかったのだけど、彼はけっこう強引なところがあったし、当時のわたしは流されがちに生きていたので、彼に誘われるまま、ビールを買って、駒沢公園に行ってハンモックを設置して、ピクニックした。今ぐらいの季節のことだったと思う。

その時、わたしは某コーヒーショップチェーンのクリスマスキャンペーンのキャッチコピーに頭を悩ませていた。いちから考えるコピーではなくて、米国本社で決まったキャッチコピーを日本版にするというもの。ただ英語を日本語に翻訳するのでは味気なくてさまにならないということでコピーライターのわたしが呼ばれたのだ。

こういう仕事はアダプテーション、もしくはローカライゼーションと呼ばれていた。クリエイティブ(デザイン)は米国本社が決めたものを使うから、いかにも翻訳したふうではない、けれどもデザインの中にバチリとはまる日本語を探すという、普通のコピーライティングとはまた違うスキルが必要な仕事だ。

与えられた期限が迫っていた。それこそ寝る間も惜しんで何案も何案も出したけれど、どれもピンとこなくて焦っていた。彼にピクニックに誘われたときも、そんなことするよりコピーを考えたいんだよな、そもそもこの人は人の都合を聞かずに連れ出すような強引なところがあるんだよ、などと心の中は不満たらたらであった。

さすがにわたしの機嫌があまりよくないことに気づいた彼にどうしたのかと聞かれたので、コピーが思い浮かばないのだと答えた。そして、こういうテーマでもともとの英文コピーはこれでと説明した。そしたら、彼が1分もしないうちに、「○○○○○っていうのはどう?」とアイデアを出した。ああああああ、それだ。

次の瞬間、わたしがしたこと、それは大泣き。わたしが何日かけても出てこなかった案をさらりと出されたことが悔しかった。しかも、その案を聞いたとき、これは絶対採用されるとわかった、それくらい完成度が高かった。彼は長らくわたしのコピーを見るコピーディレクターであったのだが、独立してフリーになっても彼なしではコピーライターとしてはイマイチである自分に苛立って泣けた。

ふてくされたわたしは、もうあなたからは独立して自由になりたいのだと彼に言った気がする。そもそもコピーを考えてほしいなんて頼んでないのに勝手に考えたり、そうやっていつもわたしの上に乗っかってくるのが嫌なのだ、と。ただ、その後、実際にまた会わなくなったのか、ただのケンカでまたすぐに会ったのか、そのあたりのことはあんまり覚えていない。なにせ、我々は本当にくっついたり離れたりで、腐れ縁とはこのこと、というような関係だったので。

そのコピーはもちろん採用されて、その年のクリスマスシーズンはなんだかちょっとほろ苦かった。

ぬくもりを、つなごう。というのが、そのコピーであった。調べたら12年も前のことであった。

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ところで、亡くなった夫の終末期のことや、自宅で看取ったこと、その後の自分のグリーフケアなどについてはひとつのテーマとしてブログにしていくことに決めました。「30代で夫を亡くした話」。

これまでは詳細に書く気にはあまりなれなかったのですが昨日突然、がぜん記録として残して公開したいという気持ちになったのでその衝動に従ってみた。これまでは夫はかっこつけだったから、自分の最後はさらされたくないだろうなという気持ちがちょっとあったけど、彼は亡くなるときまで彼らしくかっこよく、死に様は生き様だということを見せてくれたのに、それを隠したほうがいいと思っているのもまた自分の思い込みだったかもな、などと。

ちなみに、今回の投稿、世にも暗いバラの写真は、夫が亡くなった日に、まさかその日が最後になると思っていなかったときに携帯で撮ったものです。

9.26.2019

「会話力の磨き方」というオンライン講座を受けて、パラダイムシフトが起きたことはちょっと前に書いた(こちら)。そこから派生していると思うのだけど、これまでと違う自分を発見することが何度かあって面白いやら驚くやら。

今回発見した、これまでと違う自分は、インタビュー原稿を書く仕事に面白さを見出している自分、である。

インタビュー原稿というのはつまり人物取材をしてその人の言葉を書く原稿。ライターを20年もやっているからこれまでもいっぱい書いてきて、評判もいいのだけど、正直、たくさんある編集ライターの仕事の中では好きじゃない部類の仕事であった。

その理由を端的に言うと、通常の取材原稿より労力も気も使う、ということであった。

インタビュー原稿ではない、普通の取材原稿の場合、基本的には(1)私が伝えたいポイント、(2)読者が知りたいポイント、の2つだけ考慮すればいい。事実を曲げてはいけないけれど、書き手は私だから、取材して集めたデータから(1)と(2)をすくい上げればそれでいい。

でも、誰かのインタビュー原稿になると、(1)と(2)に、(3)インタビューされる人の訴えたいこと、が加わる。(1)と(2)と(3)が合致していれば何ら問題はないのだけど、たまに、この人は(1)や(2)とは全然違うことを伝えたいようだというのがインタビューしていてわかるときがある。そういうときの原稿書きは難易度が高いというか、神経がすり減る。

(1)と(2)と関係ない部分は、今回の趣旨と違うからとバサッと切り捨てる方法もあるとは思う。でも、私は、インタビュー原稿というのはインタビューされた人も含めて作り上げる共同クリエーションだと思っているので、それはしない。だから、(1)と(2)と全然違うような(3)の中から、(1)と(2)に合致しそうなポイントを探し出して書く。あるいは最初に設定した(1)と(2)はいったん捨てて、まっさらにして、(3)の視点から見て(1)と(2)を改めて設定し直すという作業をする。(1)と(2)と(3)の方向がてんでばらばらに見えるときは、これ、本当に骨が折れる。

そいういうわけで、苦手というわけではないのだけど、とにかくパワーを使うし、ストレスもかかるという理由で、インタビュー原稿は嫌いであった。テープ起こしも時間かかるし。

ところが、今日、担当していたインタビュー特集をようやく終えて、ものすごい達成感の中に、新しい感覚が自分にあることに気づいた。これまで大変で嫌だと思っていた、(1)と(2)と(3)を、どう編み上げていくか、その部分こそがインタビュー記事の醍醐味であり、挑戦しがいのある部分であるな、などと思っている自分がいたのだ。こりゃ、楽しいぞ、と。

数年前のことだけど、尊敬する先輩女性に「聡子(私の名)の聡は、公と心と耳という漢字なのよね。ライターを仕事にしているし、きっと使命のヒントが名前にもあるわね」と言われたことがある。「いやいや、人の話を聞いて言葉にして公に伝えることばっかりやって疲れたんです。みんなが『書いて書いて』と言ってくることにも疲れた。もっと自分の中から湧き出てくるものを言葉にして書きたい」とそのときの私は答えたのだけど、その後、自分を大事にすることを学んで、またひとつ螺旋階段を上がって、自分より人の言葉を伝える楽しさに目覚めた、かもしれない。

プチ開眼。と思ったら、夫が亡くなってからずっとお守りにしていたブレスレットが突然切れた。そういえば今年の誕生日に決めた1年の目標は新しい自分を見る(そのためにコンフォートゾーンを抜ける)であった。わずか1カ月で新しい自分を見つけているのだから、1年もしたらどんだけ新しい自分になっているのか、急に楽しみになってきた!

9.25.2019

写真家の幡野広志さんがブログで、カメラと車は似ていると書いていた。

運転方法を学べばどんな車でも運転できるから、あとは自分の好みの車、ライフスタイルに合った車を選べばいい。カメラもそうだ、と。

カメラの性能の差は気にしていても、好みで選ぶということはあんまり意識したことがなかったかもしれないと気づいた。と同時に、サーフィンもカメラや車と同じだな、と思った。

サーフィンも乗り方を覚えれば、誰でも乗れる。あとは、好みの乗り方、めざすスタイルによってボードを選べばいい。

わたしがサーフィンにハマったのは、そこである。乗れるようになったら終わりでなくて、そこからスタートする次の世界があった。もちろん好みの乗り方、めざすスタイルを実現するための技術も永遠に磨き続けられるといって過言ではなく、つまりは一生探求ができる。

利便性のためだけでなく、楽しみのために道具を使う、というのは、じつに人間らしい、もしかしたら人間らしさの最たることのひとつと言えるかもしれない。意識していてもいなくても、どんな道具を使っているかはその人を表現しているとも言える。

若い頃は、「自分らしさ」とか「個性」ってなんだろうと、よく迷ったものだった。クリエイティブな仕事をしていたからなおさら、自分にしかできない表現にこだわっていた。けれど、40になって肩の力が抜けて気づいたことは、身の回りに置くもの、自分のする言動、全てにおいて自分の「好き」を徹底したら、それが勝手に人とは違う自分らしさになるということであった。

写真もじつは好きなタイプの写真というのがけっこう明確にあるのに、そういうのが自分では撮れないので、腕を磨く一方で、好きな写真家がどのカメラを使っていて、どうやって現像しているのか調べることをしてみよう。

9.20.2012

何せいそがしくて疲労感がピークのときに、嫌な出来事が続いた。これはいかんと自分のご機嫌を取るために大好きなケーキ屋さんに駆け込んだ。そこのケーキは日本のケーキの味で、おいしいのだけど、今日に限っていえばケーキが食べたかったわけではなかった。ただ、そこの店主と挨拶をしたいと思ったのだ。

同じことをいう人が多いので、その店主はそういう人なのだと思う。愛想が良いわけでもないから顔を見るとほっとするというのではない。たまに話に付き合ってくれることはあるけれど、悩みや愚痴を聞いてくれるわけでもない。きっとその店主なりに喜怒哀楽や浮き沈みはあるのだろうけれど、いつも淡々と変わらず黙々と一人でケーキを作っている、その安定感のようなものが、疲れた人にいいのかもしれない。

ケーキが食べたかったわけではなかったので、ぱっと目に付いたチーズケーキを選んで買って帰った。一口食べたら、亡くなった夫がチーズケーキが大好きだったことを思い出した。そして、お彼岸だと思い出した。

夫のことを思い出さない日はないけれど、アメリカに来て以来、お盆やお彼岸など儀式的なことからは遠のいてしまった。

チーズケーキを、夫に献上するつもりで食べた。サンディエゴにおいしいチーズケーキを売っている店があってよかった。気づいたらすっかり元気で、きっと夫に「笑って」と言われたんだと思った。

9.17.2019

細かな説明は省くけれど、印刷日程が1週間しか違わない2つの特集の編集をそれぞれ担当していて、当然、特集以外の連載担当もあるし、予定外に差し込まれる作業もあるし、いろいろなことの判断を細々迫られるしで、てんやわんやな9月である。

仕事が休みの週末は週末で、ありがたいことに来客や会合(まあ主にサーフィン系の)の予定がてんこもりで、うら若き私であったらこなせなかったスケジュールだろうなぁと今日しみじみ思った。

一般的に言えば40代になった今は20代30代の頃より体力が落ちているのだろうけれど、活動量はあの頃よりずっと多い(自分比)。あえて分析するとしたら、これは体力云々の話ではなくて、出来事に振り回される生き方から、出来事を主体的に選び受け入れる生き方に変えたからだと思う。

30代までの私は、まさか自分が出来事に振り回されて生きているという自覚は全くなかったんだけどね。でも、振り返ると振り回されていたから疲れていたのだとよくわかる。振り回されるというのは、要は他人軸であったということ。

主体性という言葉は知っていて、わかっているつもりだったけど、あの頃の私はやっぱりわかっていなかったんだ思う。主体的に生きていなかったから、対峙する人に合わせて無意識に自分を変えていたし、それゆえにどこに行っても何をしてもすぐ疲れていたのだ。亡くなった夫だけが、その生きづらさをわかってくれる、私の唯一の理解者と感じていた。

自分は主体的に人生を生きていなかった、ということに気づいたのは夫を亡くしてからだ。主体的に生きるということはどういうことか教えてくれたのは人や本、出来事などいろいろあるので、とてもひとつに絞れないけれど、一番は『7つの習慣』かもしれない。「重要でない緊急のこと」に追われて「緊急でないけど重要なこと」を後回しにしているということもこの本を読んで気付いた。

なんか、まとめがないのだけど、原稿を書きまくって脳ミソが疲弊していたので思いついたことを書いてみた。とにかく、自分でいうのもなんだけど、夫を亡くし、アメリカに来てからのここ5年の自分の人間的成長ぶりに、自分が本当に感動している。あの頃の私の唯一の理解者だった夫は今の私になんと声をかけてくれるであろう。「よくやったね」と言ってくれると思うことにする。

9.11.2019

前回の投稿で「興味を持とうとする」ことと、「興味を持つと決める」ことは、似ているようで実は全然違って、現実がまったく変わるという話を書いた。これと似たようなことだけど、よく言う「心の持ちよう」ということのからくりがようやくわかった気がする。

たとえば、今日、わたしは正直ありがた迷惑な出来事に遭遇した。これまではそういうとき、「向こうは好意でやっているのだから、迷惑などと思わなずにありがたく受け取らなきゃ」と思おうとしていた。でも、それって自分の中で矛盾がある。というのも、とてもありがたいと思えないのが正直なところなのに、ありがたいと思おうとするので。だから、ひどく疲れるし、結局、ありがたいと思えない自分をどこかで責めていることになる。

だけど、最近は「ありがた迷惑だわ」という気持ちはいったん受け入れる。そのうえで、「ありがた迷惑きわまりないけど、それをありがたく受け取ろうと決める」。そうすると、「そもそもありがたくないことを、ありがたく受け取ろうとする自分、まじえらい」みたいな気持ちが湧き出る。いままでと似ているようで違う。自己肯定になる。だから、ありがたくない気持ちは同じなのに、疲れない。

ありがたくない気持ちを「ありがたく思わなきゃ」と変えようとするのと、ありがたくない気持ちだけど、「ありがたく受け取ろうと決める」のは、言葉にするとちょっとした差なのに、自分のエネルギー状態にかなり差が出るのだ。

エネルギーがいい状態って、愛とか感謝が湧き出ている状態のことと思いがちで、まあ実際無理なくそういう状態になれば最高だけど、そうなれたらもう神の域で人間をやる必要もないだろう。我々、人間が日常生活の中でいいエネルギー状態であるというのは自己矛盾がないと状態と考えていいように思う。心と言動が一致していること。言い換えれば自分の中にバトルがないこと。で、自分の中でバトルが起こるのは大抵の場合、自己否定なのだ。自分の中に湧き出てきた思いを自分が認めないとき。

わたしは自己肯定感は高くはないけれど、そこまで低くもないと思っていたが、知らないうちに自分を責めていたことは結構あるんだなぁといまさら気づく。いろいろ実践ワークをしてきたのが形になってきたのか、それとも年齢がある程度いくと図々しくなれるのか、よくわからないけど、わたしは20代より30代より、40代の自分が一番風通しよく、楽しく生きられているなとしみじみ思う。