9.11.2019

前回の投稿で「興味を持とうとする」ことと、「興味を持つと決める」ことは、似ているようで実は全然違って、現実がまったく変わるという話を書いた。これと似たようなことだけど、よく言う「心の持ちよう」ということのからくりがようやくわかった気がする。

たとえば、今日、わたしは正直ありがた迷惑な出来事に遭遇した。これまではそういうとき、「向こうは好意でやっているのだから、迷惑などと思わなずにありがたく受け取らなきゃ」と思おうとしていた。でも、それって自分の中で矛盾がある。というのも、とてもありがたいと思えないのが正直なところなのに、ありがたいと思おうとするので。だから、ひどく疲れるし、結局、ありがたいと思えない自分をどこかで責めていることになる。

だけど、最近は「ありがた迷惑だわ」という気持ちはいったん受け入れる。そのうえで、「ありがた迷惑きわまりないけど、それをありがたく受け取ろうと決める」。そうすると、「そもそもありがたくないことを、ありがたく受け取ろうとする自分、まじえらい」みたいな気持ちが湧き出る。いままでと似ているようで違う。自己肯定になる。だから、ありがたくない気持ちは同じなのに、疲れない。

ありがたくない気持ちを「ありがたく思わなきゃ」と変えようとするのと、ありがたくない気持ちだけど、「ありがたく受け取ろうと決める」のは、言葉にするとちょっとした差なのに、自分のエネルギー状態にかなり差が出るのだ。

エネルギーがいい状態って、愛とか感謝が湧き出ている状態のことと思いがちで、まあ実際無理なくそういう状態になれば最高だけど、そうなれたらもう神の域で人間をやる必要もないだろう。我々、人間が日常生活の中でいいエネルギー状態であるというのは自己矛盾がないと状態と考えていいように思う。心と言動が一致していること。言い換えれば自分の中にバトルがないこと。で、自分の中でバトルが起こるのは大抵の場合、自己否定なのだ。自分の中に湧き出てきた思いを自分が認めないとき。

わたしは自己肯定感は高くはないけれど、そこまで低くもないと思っていたが、知らないうちに自分を責めていたことは結構あるんだなぁといまさら気づく。いろいろ実践ワークをしてきたのが形になってきたのか、それとも年齢がある程度いくと図々しくなれるのか、よくわからないけど、わたしは20代より30代より、40代の自分が一番風通しよく、楽しく生きられているなとしみじみ思う。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this: