10.31.2019

川尻先生!ホリスティックヘルスって何ですか?」の打ち合わせで川尻先生に会った。詳しくはまたそのブログかどこかで書くと思うが、最近、川尻先生は心身の健康のみならず、チームビルディングのお話も各所でしていて、某団体のアドバイザーになっていたり、チームのコンサルタントをやっていたり、その手のテーマでの講演もしていたりするらしい。

なんでまた?と最初は思ったのだが、組織(チーム)の働きというのもインプット、アウトプットのプロセスで考えることができて、アウトプットに働きかけるのではなく、どれだけインプットを変えて、そのインプットが自然にフローする状態を作るかが大事なのだと聞いて、納得した。つまりは、先生が日頃から提唱している心身の仕組みと同じなのだと。

「宇宙」に対して、体は「小宇宙」だと言われるけれど、組織とかチーム、コミュニティーというのは「中宇宙」と言えるのかもしれない。いずれにしても大きさが違うだけで、万物がよりよい状態であるための基本的な仕組みは同じってことなのかもしれない。それを真理というのかもしれない。

面白いのは、じつは最近、わたしはチームとか組織というものに興味が出ていて、そのタイミングで川尻先生の話を聞けていることだ。けっこう最近まで、自分は一匹狼で団体行動が苦手だと思っていた。実際嫌いだった。でも、なぜかわからないけれど、昨年当たりから、いかに人と関わるかがテーマとして浮上してきて、仲間とどうやって協業すれば互いの100%以上を引き出せるか、というところにいまは関心がある。

年を重ねて最近本当につくづく感じるのは、「わたしは◉◉だ」と思っていたことは、その後いくらでも変わりうる、ということだ。変わっても、変わらなくても、どっちでもいいけど、「変わりうる」可能性を受け入れて心を開くと、人生は自分が想像していた以上の景色を見せてくれて、楽しくなる。

10.29.2019

今日はちょっとスピリチュアル。

11月に大好きなシャスタに行くのだが、2カ月の長期滞在を含めて合計で7回目となる今回の滞在は「約束を思い出す最後の旅」だという言葉が降りてきた。シャスタへの旅が最後になるという意味ではないようで、「来年以降はそれぞれが思い出した約束を実行していくことになる」ということらしい。だから、まだ思い出していない人、思い出しつつあるけれども定かでない人をできるだけシャスタに呼ぶことが求められているみたい。

でも、一体、わたしの周りで「思い出していない人」「思い出しつつあるけれども定かでない人」が誰かはわからないので、久しぶりにFacebookを使ってまるで公募のように募集してみた。誰かからメッセージが来るかもしれないし、来ないかもしれないけれど、今回のわたしの旅に同行者が集まることはじつは重要ではなくて、あのメッセージを見て心が動いてシャスタに行く人がいることが大事であるようだ。

であるようだ、とまるで他人事のような口調で我ながらおかしいけれども。

もちろん、「約束を思い出す」ために必要なのはシャスタへの旅だけでないし、もっといえば「約束を思い出す」という自覚はなくても約束を実行に移している人もいるので、「約束を思い出す」ことそのものに固執しなくていい。というのも、結局、「本当の意味で自分を生きる」ことをすれば、それは約束を思い出して実行していることと同じだから。しかも、もっと言えば、別に約束を思い出して実行することが今生の目的でない人もいる。大事なのはそれぞれの魂の目的を生きることだ。

関係ないけど、通勤の車の中ってわたしにはすごくいい瞑想の時間のようで、今朝は「わたしは、わたしの魂の計画を信じます」という言葉が降りてきて、それを音にしたらエネルギーが充填された感覚があった。自分用の最新のアファメーションをもらった感じ。

「約束を思い出す」というのは、地球を救う大いなる計画があることを信じ、それに参加することに決めてきた自分の魂の計画を信じ、委ねる(開く)ということでもあるのだろう。

10.27.2019

キッチンテーブルで使っているスツールを新調した。そんなつもりなく出かけた先で、思いがけず理想のスツールと出会って、購入を即決した。

スツール自体は、この1、2年ずっと探していた。ことあるごとに物色していたおかげで、やっぱり背もたれはほしいな、とか、足置きもあるにこしたことない、とか、上下に調節できることは必須だな、とか、ほしいスツールのイメージはかなり具体的になっていた。ただ一方で、店で見るスツールはどれもだいたい理想に対して何かちょっと足りないというものばかりで、ほしいと思ってから購入するまでに2年くらいかかってしまった。

その間、「このあたりで妥協してもいいかな」と思うものにも何度か出会ったが、妥協しなくてよかった。というのも、新たに購入したスツールは、わたしたちが理想の条件として掲げるポイント全てを満たすだけでなく、予算を下回る価格だったのである。

それで改めて思ったのだが、スツール購入に至るまでの一連の流れは、エイブラハムがよく言っている宇宙の引き寄せの法則そのものの体験であった。

・まずは何を望んでいるのか具体的にイメージして願望を放つこと。

・イメージを具体的にするにはいろいろな体験をサンプルにすればいい(この場合でいえば、いろいろなスツールを見て回ることがそれに当たる)。

・理想の物事(状況)は必ず手元にくると信じること(妥協することは信じていないということになる ※ただしそれが悪いわけじゃない)。

・心底信じることができて(執着を手放せて)、リラックスしているとき、その理想は現実化する。

スツールという、わたしの人生の重要課題でないものだったから簡単にできたけれど、重要課題でも法則は一緒。この法則を知って、実践し、享受できるようになると、人生は本当に楽しくなる。

嫌なことがあっても、その嫌な体験は「望み」を知る機会にしかすぎないとわかれば、「なんでこんな嫌なことが起こるの」と嫌なことの中でぐるぐると停滞することがなくなるし、望みは絶対叶うのだと決めれば、そもそも叶うと思っているから、待っている時間を楽しめる。

待っている時間が楽しければ、望みが最終的に叶おうと叶うまいと、結局楽しいということになる。

エイブラハムの言っている宇宙の法則は、「願望の現実化の法則」というようによく語られるけれど、その考え方を採用すれば、「いま」しあわせを感じられる「しあわせになる法則」であるなぁとも思うのだ。

10.26.2019

人生3度目のオペラは、またもサンディエゴオペラの公演。今回は『アイーダ』。

『アイーダ』といえばサッカー観戦の応援で使われる凱旋行進曲が有名。あれを、オペラの物語の中で、舞台として鑑賞したらさぞかし感動するだろうと心ときめかせて出かけたのだが、今回はクラシックなステージセッテイングをあえてせずに、オーケストラが舞台の下ではなく舞台上にいるという独特の演出であった。脇役の歌い手さんたちは俳優として舞台には立たず、まるで合唱隊のようにオーケストラの背後にいて、動き回るのは主要な登場人物数人だけというシンプルな作りで、『アイーダ』を何度も見ているようなオペラファンには斬新で面白かったのかもしれないが、今年からオペラファンになった身としては、いわゆる豪華絢爛な凱旋シーンを見たかったので、ちょっと残念というのが正直なところであった。

それでも、監督が違ったらどうだったんだろう? わたしがリゴレットで好きになったあのテノール歌手が歌ったらどうだったんだろう? と興味は尽きず、やっぱりオペラはもういいや、とはならない。むしろ、一番最初の『リゴレット』が良すぎたものだから、あのときの感動を求めて、いつかあのときと同じ感動と出会えることを信じて、今後も通い続けると思う。

これは波乗りも同じだ。

波と本当に一体になったような最高のライディングはそうそうはないのだけど、でも一度体験すると、今日こそあの感動に再会できるかもしれないと思って、まだ眠い目をこすって起きて、日が昇っていない早朝に車を走らせてしまう。その日出会えなくても、翌日になると、今日こそがザ・デーかもしれない、とまた起き出す、その繰り返し。

希望、という言葉を使うのは大げさかもしれないけれど、でも、わたしにとってはこれは希望だ。

夫が亡くなる数ヶ月前に、長年の夢だったツリーハウスを建てようと土地を買い、制作を始めた。完成を待たずして夫は亡くなり、さぞかし無念だったろう、間に合わせることができたらよかったのに、としばらくは思っていた。けれど、あるときふと心にこんな言葉が響いた。

完成させることが大事だったんじゃない。土地を買って、制作に取りかかったことで、残り少ない最後の日々を希望を持って過ごせたことに意味があったんだ、と。

オペラもサーフィンも「あの感動」に再び出会えたら最高だけど、出会えなくても、あの感動にまたいつか出会えるはずだと信じて生きることが希望なんだ。もっといえば、もしかしたら再会できなかったとしても、今回はダメだったけど次こそは…次もダメだったけど、その次こそは…と希望を持ち続けられることそのものがしあわせなことなのだ。

【お知らせ】ホリスティックヘルス・ブログ更新

川尻先生!ホリスティックヘルスって何ですか?」の第10回「疲れるとめまいや耳鳴りがするとき」を公開しました。

ここ数回は、体を全体として見るということについて、手を替え品を替え、お伝えしてきましたが、今回は久しぶりに具体的な症状について、ご回答いただきました。

ちなみに、川尻先生は国内外を飛び回って忙しいので、次の取材日は1カ月前から決めているのですが、前回わたしは「元気だけど疲れていて気が乗らないから」という理由でミーティングをスキップさせていただきました。

1カ月も前から約束していたのに、忙しい先生がせっかく時間をあけているのに、それでもなお、やっぱり疲れていて珍しく先生と会って話を聞くことにワクワクしなかったので、正直に伝えたのです。もちろん、キャンセルさせてください、という伝え方ではなく、キャンセルしてもいいですか? と聞く形で。

当然、具合が悪いのかと心配されましたので、正直に、すこぶる元気だけど頭が疲れていて取材すると考えると気が重くなるので正直に打診してみた、と返答したら、「すばらしい(笑)」と言ってもらえました(笑)。

数年前に胃潰瘍に悩まされ、その後もしばらく時折ある胃痛に悩まされていましたが、川尻先生のこのお話を聞くようになって心底納得したおかげか、ここ最近は胃痛を感じることは皆無です。ありがたや。

先生の話を聞いていると、しあわせを追求すると人は健康になるってことだなとしみじみ思います。ということで、しあわせになるヒントがたくさんあるブログと思いますので、ぜひ定期的にチェックしてもらえたらうれしいです!

10.21.2019

日英・英日の翻訳ができるアメリカ人の方をインタビューした。日本語ができるので印刷前の原稿の確認もお願いしたのだが、指摘されることがいちいち「へぇ、そこが気になるのか」というもので、なかなか面白かった。

指摘されたのは数カ所で、すべて要点は同じ。具体的に言うと、「このような書き方だと、誤解されることはないですか?」というもの。

日本人のわたしにしてみたら、「言外」に「暗黙の了解」として認識されるから誤解される心配はないと思えることなのだが、確かにより正確にするためにもっと言葉を締めることはできる。それで、改めて、日本語というのは、言葉にしない部分に共通の理解があること前提で書かれる、非常に曖昧な言語なんだなぁということを思い知らされた。

どっちが良い悪いではないのだけど、日本人が英語を話そうとするとき、この曖昧さがネックになる。そもそも会話をするときに、その曖昧さをクリアにしようとする発想がない。だから、日本語で言いたいことをそのまんま英語に転換するとおかしなことになる。

「髪、切った?」を「Did you cut hair?」と言っちゃうのはその代表的なものと思う。日本人にとっては「髪、切った?」の言葉で、「誰か」が「あなたの」髪を「切ってくれた(受動)?」だと理解できる。が、英語ではそのまんま、「あなたが」(誰かの)髪を「切った(能動)?」という質問になるし、前述の文のままでは「誰の」髪を切ったかが明確ではない。インタビューした人に指摘されたのはこの手の類いのことで、いやー、本当に興味深く、勉強になりました。

別件で取材した英語の先生は、日本人に対しては、まず日常から、主語・述語を明確にするクセをつけてもらうと言っていた。頭の中の意識がそのようになっていなかったらなかなか英語は話せないというのはとても納得のいく話だ。

翻訳といえば、ほぼ日で掲載されている、村上春樹さんの小説を20年間翻訳し続けているメッテさんのインタビュー「言葉に橋を架ける人」もおもしろい。

「完璧な文章などというものは存在しない」とはよく言ったもので、わたしは村上春樹さんの文章と世界に魅了された一人であった。彼の文章はいわゆる日本文学っぽくないところがあって、そこに引かれた部分もあるのかもしれないな、などとアメリカに暮らしてみて思う自分がいる。若くて、生きづらかったわたしは、村上春樹小説の登場人物が生きるような世界なら自分でいられるような気がしていたんじゃないかな。若くなくなったいま、結構いろんなところで自分を出せるようになって、逃げる場所がそんなに必要なくなった。小説をあまり読まなくなってしまったのはそれと関係しているかもしれない。

良くいえば生きやすくなったし、悪くいえば感性の繊細さは失ってしまったと言えるかもしれない。年を重ねるというのは、そういうことなんだろう。と、これが件のインタビューした人であれば「そういうこと」はどこを指すか、日本人なら皆わかりますか?と突っ込まれそうだ。わからないかもしれないけど、いいんです、ここは曖昧で、その人の思う言葉を入れてもらえれば、というわけにはいかないのだ。ほんと、おもしろい。

10.15.2019

カスタムオーダーしたサーフボードができあがったのだが、取りに行ってみるとある箇所が注文通りでなかった。

カリフォルニアにおいてカスタムオーダーをするとまず8割の確率で注文通りにできないとはいろんな人が言っていること。覚悟は多少はしていたが、しっかりしたブランドだし、シェイパーと直接話したし、後日セールスマネジャーから送られてきた見積もりにはその注文について言及がなかったのでわざわざ指摘して、再見積もりをしてもらったという経緯があるだけに、そこまでしてもなお注文通りでなかったことには少々がっかりした。

久しぶりになるべく封印していた言葉がでてきそうになった。「日本だったらこんなこと起こらないのに」。

でも、自分の中には微妙にカリフォルニア化された自分もいて、その人は「いやいや、この箇所はボードの性能にまーったく関係ない小さなことじゃん。細かいこと言うなや」と突っ込む。

やれやれ。こうなると自分の中に対立が生まれて疲れるので、今回はカリフォルニアンな自分を採用した。何をしたかというと、とりあえず、取りに行ったショップで対応してくれた店員と話してもラチがあかないので、ボードは引き取って、メールでセールスマネジャーに事の経緯を説明し、小さなことだし、作り直せとは言わないから、その部分を差し引いた請求書を再度発行してほしいと依頼した。

セールスマネジャーからはすぐにお詫びの返事が来て、該当部分を差し引いた請求書を出してくれた。そして、気持ちとして、ショップの店員に、オリジナルギアを何か無料でプレゼントするように伝えておく、とも。

かくしてわたしは残りの支払いをしにショップに行ったのだが、当然のように、店員に話が通っていて、名乗るだけですべてがスムーズにいくということはなかった。ここで、カリフォルニアンなら「ところでマネジャーから、お詫びに無料で何かくれるって言われたけど」と言うだろうし、言えば店員は「OK」と対応してくれたことはわかっている。けれど、なぜかここでは日本人のわたしが出てきてしまい、支払いだけしてすごすごと帰ってきた。

帰りの車の中で、しばらく、「あー、気の弱い日本人丸出しだなぁ…」と悶々としていた。特にすっかりアメリカ人化している相方はこの経緯を聞いてわたしが何ももらってこなかったことを知ったら、一言ちくりと言うだろうな、と。

けれど、ここで日本人のわたしが突如、高らかと宣言をした。「ええい、じゃかあしい、こちとらサムライじゃ! 武士は食わねど高楊枝。お詫びの気持ちは受け取るけど品物は受け取らない、物がほしいわけじゃない、ほしかったのは謝罪だ。それがサムライスピリッツだと、堂々としていればいいではないか」(どこの方言だ)。

そうなのだ。アメリカにおいては、日本人の意識のままでいると、主張が弱くて見下されたり、不利な立場に陥るのではないかと、いつもどこかで気を張っていた。特にこのような交渉ごとではなおさら。だけど、突然でてきたサムライに熱弁されて、心底同意できた。いいじゃん、日本人のまんまで。

言いたいことがよくわからない変なアジア人と思われたくなくて、がんばっていた自分がいたことに気づいたし、いやいや、いいじゃん、変なアジア人と思われたとしても、自分がそれが自分らしいと堂々とできればそれで、と改めて思えた。

どんな自分もOK。自分をまたひとつ許可してあげることができた気がする。このひとつは小さなことなんだけど、これを積み重ねると違う景色が広がることは体感済みなので、なんだか、楽しみだ。