10.7.2019

もうすぐ8カ月になる子犬、ユパが、ベッドの掛け布団をめくりあげて私を起こすという技を覚えた。

これまでは、私が起きそうな気配に気づいたユパが顔を舐めてくる→私が顔を下にして隠す→ユパが頭の上に乗って来る→私が布団の中にもぐる→ユパが布団を前足で掘るという攻防であったが、昨日は布団にもぐったらユパが掛け布団の端っこをくわえて歩いて掛け布団をめくったので、面白いわ可愛いわで笑って起きてしまった。

今日もぜひやってもらいたくて布団にもぐってみたけれど、ユパは前足で掘ることしかせず、待っているうちに私がトイレに行きたくなったので根負け。こんなふうに起きる朝の、なんとしあわせなことか。

FacebookはアプリをiPoneから削除したら、まったく見なくなって、見なくなってしまうと、そんな世界もあったなというほど遠く感じる。もうずいぶん前であるが、Twitterを止めたときも同じであった。なんで犬の話の後にSNSの話を出したかというと、朝起きて犬の相手をしているつもりでいて、その実、けっこう犬はそっちのけでSNSのチェックをしていたんだなということが、今になってわかったからである。

ある気功の先生が「見えないもの(そのとき見ていないもの)は存在していない」というようなことを話したことがあるらしい。友人は「では、月を見ていないときは、月はないってことですか?」と質問したら、先生はしばらく黙って、「そうです。ないってことです」と答えたと言う。要するに世界はその人の意識の中にしかなくて、その時、意識に上がっていないものは「ない」ということなんでしょう。わたしとしては違和感なく腑に落ちる考えで、FacebookもTwitterもわたしの意識からなくなったら存在がそもそもないのと何ら変わらないもんなぁと体感している。

逆に言うと、意識にあるものはやっぱり存在しているとも考えられる。たとえば夫は亡くなったけれど、わたしの意識から消えることはないから、彼は「在る」のだと。もちろん、意識は瞬間瞬間そのときしかないから、考えていない瞬間は「ない」とも言えるのだろうけど。

世界はわたしの意識の中にしかないと考えると、しあわせな世界を見ているか、見ていないかは、自分次第だってこともよくわかる。もし、しあわせな世界を見ていなくても、そのしあわせでない世界を選んでいるのは自分らしいということをいったん受け入れてから改めて眺めてみると、見えるものがちょっと変わる、かもしれない。

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