10.21.2019

日英・英日の翻訳ができるアメリカ人の方をインタビューした。日本語ができるので印刷前の原稿の確認もお願いしたのだが、指摘されることがいちいち「へぇ、そこが気になるのか」というもので、なかなか面白かった。

指摘されたのは数カ所で、すべて要点は同じ。具体的に言うと、「このような書き方だと、誤解されることはないですか?」というもの。

日本人のわたしにしてみたら、「言外」に「暗黙の了解」として認識されるから誤解される心配はないと思えることなのだが、確かにより正確にするためにもっと言葉を締めることはできる。それで、改めて、日本語というのは、言葉にしない部分に共通の理解があること前提で書かれる、非常に曖昧な言語なんだなぁということを思い知らされた。

どっちが良い悪いではないのだけど、日本人が英語を話そうとするとき、この曖昧さがネックになる。そもそも会話をするときに、その曖昧さをクリアにしようとする発想がない。だから、日本語で言いたいことをそのまんま英語に転換するとおかしなことになる。

「髪、切った?」を「Did you cut hair?」と言っちゃうのはその代表的なものと思う。日本人にとっては「髪、切った?」の言葉で、「誰か」が「あなたの」髪を「切ってくれた(受動)?」だと理解できる。が、英語ではそのまんま、「あなたが」(誰かの)髪を「切った(能動)?」という質問になるし、前述の文のままでは「誰の」髪を切ったかが明確ではない。インタビューした人に指摘されたのはこの手の類いのことで、いやー、本当に興味深く、勉強になりました。

別件で取材した英語の先生は、日本人に対しては、まず日常から、主語・述語を明確にするクセをつけてもらうと言っていた。頭の中の意識がそのようになっていなかったらなかなか英語は話せないというのはとても納得のいく話だ。

翻訳といえば、ほぼ日で掲載されている、村上春樹さんの小説を20年間翻訳し続けているメッテさんのインタビュー「言葉に橋を架ける人」もおもしろい。

「完璧な文章などというものは存在しない」とはよく言ったもので、わたしは村上春樹さんの文章と世界に魅了された一人であった。彼の文章はいわゆる日本文学っぽくないところがあって、そこに引かれた部分もあるのかもしれないな、などとアメリカに暮らしてみて思う自分がいる。若くて、生きづらかったわたしは、村上春樹小説の登場人物が生きるような世界なら自分でいられるような気がしていたんじゃないかな。若くなくなったいま、結構いろんなところで自分を出せるようになって、逃げる場所がそんなに必要なくなった。小説をあまり読まなくなってしまったのはそれと関係しているかもしれない。

良くいえば生きやすくなったし、悪くいえば感性の繊細さは失ってしまったと言えるかもしれない。年を重ねるというのは、そういうことなんだろう。と、これが件のインタビューした人であれば「そういうこと」はどこを指すか、日本人なら皆わかりますか?と突っ込まれそうだ。わからないかもしれないけど、いいんです、ここは曖昧で、その人の思う言葉を入れてもらえれば、というわけにはいかないのだ。ほんと、おもしろい。

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