10.14.2019

少し前のことだけど、ぢんさんこと心屋仁之助さんがそう遠くない未来にサンディエゴに来そうだというイメージが突如湧いた。その数日後、なんと、友だちがちょっと前に「ぢんさんをサンディエゴに呼ぶ」と決めて宣言していたことが発覚。きっとそれをわたしの意識が拾ったんだと思った。彼女はとある場所で演奏しているぢんさんの姿が目に浮かぶと言う。それはわたしがぢんさんがサンディエゴに来そうと思ったときと同じイメージだった。きっと、実現するね。

その友だちは数年前から、「こんなイベントがしたい」「こんな人を呼びたい」とよく言っていたけれど、その最後にくる言葉は「やってください〜、呼んでください〜、お手伝いするから〜」だった。けれど、この数年の間にぐっと変化して、自分でイベントを主催したりするようになっていて、輝きが増していることを知っていた。だけど、まさかぢんさんを呼ぼうとしているなんて、すごいわ!尊敬するわ! わたしもお手伝いできることはする、ともちろん名乗り出た。

ところで、あの八木さやちゃんも、ブログで「自分ビジネス」のサンディエゴ版の収録が決まっていると書いていた(こちら)。きっと誰か働きかけた人がいるに違いないと思っていたのだけど、それも大好きな知り合いの方が働きかけたということを知った。その方も、八木さやちゃんのことを呼ぶと「決めて」しまい、本人の承諾はおろか、まだ何も知らせていないのにいろいろな手配を整えることを先にしてから八木さやちゃんにオファーしたのだそうだ。ただ「来ませんか?」だったら実現しなかったかもしれない。もう準備してあるから、あとは来るだけっていうのが男前すぎる。素敵。

誰かを呼んでイベントを開くというのはわたしのしたいことではないから、そのまんま参考にするわけじゃないけれど、彼女たちの「覚悟を決める」→「とっとと動く」というあり方を見せてもらって、わたしも心が踊って、やる気が倍増した。自分のしたいことをしている人はそれだけでちゃんと人に(いい)影響を与えるのだな。

改めて、何をしたくないかではなく、何がしたいかに常にフォーカスしよう。そして、「したい」を「する」に覚悟を決める。一度、覚悟を決めたら、そのために何をするって常識で考えて行動する必要はなくて、その「したいことが実現したときと同じエネルギー」である時間を増やす。つまりはいい気分でいることをがんばる。そのときに湧き出るひらめきに従う。

ここが間違いがちなんだけど、よく何かを受け取るのが下手っていう人がいるけれど、受け取るのってただもらうだけじゃなくて、受け取って自分が行動するってことも含むのだと思う。ひらめきも、ひらめいただけではだめで、そのひらめきを行動に移したとき、受け取った、と言えて、変化が起こるのだ。大きなことである必要はなくて、「あ、なんかしらんけどいま、コーヒー飲みたい」という程度のことでいい。ああ、なんかしらんけど、これを書いているいま、楽しい。それでいいのだ。

10.11.2019

大きな台風が東海、関東に上陸しそうとのニュースを聞いて心配している。神奈川県でも沿岸部にある夫のお父さんが暮らす地域には避難勧告が出ていて、ちょっと前まではメッセンジャーのやりとりができていたが、きっとそれどころじゃないのだろう、やりとりは途切れて、こちらは心配するだけで何もできることがないのがうらめしい。

太平洋のこちら側の海は向こう側に台風が来ているなどととても思えない平和な小波が割れている。こういうとき、日本って近いようでいて、やっぱり遠いのだなぁと思う。当然だけど、アメリカのニュースでは日本の台風のことは報道されない。

けれど、NHKなどはウェブでも中継が見られることをさっき知った。これを見たところで何ができるわけではないのだけど見ずにいられない。被害が最小限ですむことを祈っています。

10.7.2019

もうすぐ8カ月になる子犬、ユパが、ベッドの掛け布団をめくりあげて私を起こすという技を覚えた。

これまでは、私が起きそうな気配に気づいたユパが顔を舐めてくる→私が顔を下にして隠す→ユパが頭の上に乗って来る→私が布団の中にもぐる→ユパが布団を前足で掘るという攻防であったが、昨日は布団にもぐったらユパが掛け布団の端っこをくわえて歩いて掛け布団をめくったので、面白いわ可愛いわで笑って起きてしまった。

今日もぜひやってもらいたくて布団にもぐってみたけれど、ユパは前足で掘ることしかせず、待っているうちに私がトイレに行きたくなったので根負け。こんなふうに起きる朝の、なんとしあわせなことか。

FacebookはアプリをiPoneから削除したら、まったく見なくなって、見なくなってしまうと、そんな世界もあったなというほど遠く感じる。もうずいぶん前であるが、Twitterを止めたときも同じであった。なんで犬の話の後にSNSの話を出したかというと、朝起きて犬の相手をしているつもりでいて、その実、けっこう犬はそっちのけでSNSのチェックをしていたんだなということが、今になってわかったからである。

ある気功の先生が「見えないもの(そのとき見ていないもの)は存在していない」というようなことを話したことがあるらしい。友人は「では、月を見ていないときは、月はないってことですか?」と質問したら、先生はしばらく黙って、「そうです。ないってことです」と答えたと言う。要するに世界はその人の意識の中にしかなくて、その時、意識に上がっていないものは「ない」ということなんでしょう。わたしとしては違和感なく腑に落ちる考えで、FacebookもTwitterもわたしの意識からなくなったら存在がそもそもないのと何ら変わらないもんなぁと体感している。

逆に言うと、意識にあるものはやっぱり存在しているとも考えられる。たとえば夫は亡くなったけれど、わたしの意識から消えることはないから、彼は「在る」のだと。もちろん、意識は瞬間瞬間そのときしかないから、考えていない瞬間は「ない」とも言えるのだろうけど。

世界はわたしの意識の中にしかないと考えると、しあわせな世界を見ているか、見ていないかは、自分次第だってこともよくわかる。もし、しあわせな世界を見ていなくても、そのしあわせでない世界を選んでいるのは自分らしいということをいったん受け入れてから改めて眺めてみると、見えるものがちょっと変わる、かもしれない。

10.4.2019

まだ読んでいないので安易なことは書けないのだけど、わたしが日々サーフィンと筋トレと英会話学習と犬の教育に余念のないことをGoogleやAmazon.co.jpはよくご存知で、この度、「ハーバード式英語学習法」という本を推薦してきてので、まんまと乗せられて買ってしまった。というのも、そこに書かれていた「書けない英語は話せない」という謳い文句がまさに自分の思うポイントだったからである。

いきなり話は飛ぶけど、これサーフィンも同じ。サーフィンの動きを陸でトレーニングする「陸連」って、はたからみたら恥ずかしい動きだから、バカにしがちだけど、安定した陸の上でできない動きを、不安定なサーフボードの上でやれるわけがないのです。件の謳い文句に言い換えるなら「陸でできない動きはサーフボード上でできない」。

で、英語学習に話を戻すと、英会話の上達をめざすときにまず考えつくのがリスニングとスピーキングのスキルを磨くことなんだけど、リスニングとスピーキングができるようになっても英会話はじつは上達しないということにあるとき気づく。

というのは、英会話のつまづきポイントってスキルだけじゃなくて、もっとそもそもの部分にあったりするからだ。そもそもの部分とは何かというと、「話したいこと(もしくは話すこと)がない」というもの。話したいことがないんだから会話を膨らませようがないのだ。本の謳い文句にあった「書けない英語は話せない」というのは、ライティングの能力がないといけないという意味ではなくて、書き出せるくらい頭の中で整理されていないものは口に出てくるわけがないということだと理解して、腑に落ちたのだ。

「そもそも日本語でだっておしゃべり得意じゃないし、仕方ない」とそこで止まるのもまた本人の選択。ただ、わたしは夫を亡くしてからというもの、残りの人生は自分の持っているかもしれない能力を可能な限り引っ張りだして生きるのだととんでもなく鼻息荒く生きているので、「そもそも日本語でだっておしゃべり得意じゃないし、仕方ない」では終えたくない。その壁を超えた自分を見たい。そこで、この間受けたのが英語に限らない会話力の講座なんだけど(こちら)、これは本当にブレイクスルーであった。話したいことがなければ聞けばいいっていう(笑)。

それで、聞くことが心から楽しくなって会話が好きになったところで、はたと、いやいや、わたしだって話したいことを持っているじゃないか、と思い至った。それまでは自分が人の話に興味なかったから、誰も自分の個人的な話に興味なんかないっていう前提でいたらしい。話したいことがないわけじゃないけど、人に面白いと思ってもらえるような内容ではないから話すことがないと思っていただけだった。でも、人の話はなんでも楽しく感じるようになった今、自分のどんな話だって相手にとって面白い部分はあると思えるようになった。前提が変わるというのはまさにこのこと。

でも、この境地にはいきなりは辿り着けなくて、まずは人の話を聞いてみるという段階が必要だったんですね。わたしの場合は。最近、毎日、脱皮しているような気分。新しい自分がぺろんぺろんと出てきて楽しい。

10.2.2019

今朝、出社前にコーヒーを買いにスタバに寄ったら、消防車が2台、駐車場に停まっていた。大きなショッピングモールで、比較的大きな駐車場があるが、さすがに大型車専用のスペースはないから、消防車2台のために通常の乗用車10台分くらいのパーキングスポットが使われていた。

店に入ると、店の中央のテーブルに制服の男性がずらりと8人くらいいて、よく見たらファイヤーマンたちであった。ああ、消防隊員の人たちの休憩か。目が合った数人と軽く挨拶して、自分のコーヒーを買って店を出た。そういえば、あんな風に消防隊員たちがコーヒーショップで談笑して休んでいるという光景は日本で見たことがなかったなぁ。

消防隊員の休憩に出くわすのは初めてのことであったが、警察官はよく見る。ドーナツ屋でドーナツを選んでいたら警察官が入ってきて何事かと思ったらドーナツを買いに来ただけだったり。店と警察とは何か契約があるのか? それとも公務に就いている人に対する純粋な店の好意なのか? 詳細はわからないけれど、警察官のドーナツはタダであった。

わたしのうろ覚え都市伝説的な知識によれば、日本では警察官は制服を着ているときは私的なことをしてはいけなかったような気がする。ドーナツを買うなんてもってのほかだろうし、タダなんてなったら、「我々の税金で暮らしているのにさらに食べ物が無料なんて」と炎上しそうである。

もうひとつ、日本ではあまり見なかったけれどこちらでよく見るのは、飲食店でのバースデー・サプライズ。店内が突然暗くなってハッピバースデーの音楽とともにケーキが登場して、本人は祝われることを知らなくてびっくり、というのは日本でもよく見るのだが、店員がケーキを運んでいく先に座っているのが、わたしよりずっと年上の中年女性だったり、高齢男性だったりするのだ。しかも集まっているのは子どもとか家族ではなくて、同年代の人たち。これはいつ出くわしてもなかなか心温まる光景である。

日本のここがよかった、アメリカのここがよかった、それぞれにいろいろあるけれど、常識と思っていることは住む場所で全然違うということを体で学ぶにはいろんな国に行くのが手っ取り早い。もちろん体感で学ばなくてもすでにできている人もいて、必ずしもみんな国外に出るべきであるという話でもない。いずれにしても、「常識なんて結局環境に左右されるもので、いろんなことがありなんだ」ということを知って、受け入れられると、生きるのはがぜんラクになる。

10.1.2019

アメリカに来るときに、親友がプレゼントしてくれた、愛犬オセロを模した小さなフェルトのぬいぐるみがある。わたしにとっては親友、犬、義理のお父さん、そして亡くなった夫、いろんなことが含まれた、渡米前のしあわせな湘南での暮らしを象徴するようなアイテムで、すごく思い入れがある。アメリカに来て3回、住む家を変えたが、どの家でもベッドサイドにはそのぬいぐるみを飾ってきた。

昨日、寝室に入った子犬ユパがなかなか出てこないので嫌な予感がして見に行ってみると、オセロのぬいぐるみをはぐはぐと破壊しようとしているところだった。思わず叩きたくなったがさすがにそこは抑えて、「No!」とたぶんこれまで怒った中で一番大きい声を出した。真剣な目で「Leave it」と言ったら、さすがにユパはいつもとは違う様子を察して、わりとすぐにぬいぐるみを離してくれた。

ぬいぐるみはほぼ無傷であったが耳が取れてしまっていた。瞬間、涙が出た。ぬいぐるみをそのへんに転がしていたなら自分の落ち度と思えるが、万一にでも遊び道具にされないようにとそこそこ高い棚に飾っておいたのでなおさら腹立った。「オセロだったら絶対こんなことにしないのに。このバカ犬め!」。

そもそもうちの犬がオセロだったらこんなことしないのに。ほんとだったら、できることなら、わたしだってオセロといたいのに。オセロがいないから、ユパにしたのに、オセロとユパは違う…ぐるぐるぐるぐる…ああ、あの湘南の日々は戻らない…。冷静に考えたらぬいぐるみはほぼ壊れていないし、ユパはまだ7カ月の子犬で好奇心旺盛なのは普通のことだし、(よくもわるくも)そもそも、たかだかぬいぐるみなのだけど、いろんな感情が一緒くたになって収まりがつかなくなった。

感情的になっていることがわかったので、ひとまず別の部屋で一人になって筋トレをし(笑)、ある程度冷静になったところで、相方とユパに向かって宣言した。「とりあえず腹が立つし、悲しいので今日は怒り続ける。でも一晩寝たら水に流すことを約束する」。

ユパはもちろん言葉はわからないと思うけれど、わたしが何やら怒っていることはわかったみたいで、いつもなら寝るときに枕元にやってくるのに、その日の夜は寝るときになってもわたしの足元からさらにちょっと離れたところで、小さく丸くなっていた。

それがあまりにかわいくていじらしかったのでわたしの怒りは5分も持たなかった(笑)。ユパ、おいで、と呼んだら、「え、行っていいの!?」って顔して尾っぽ振ってうれしそうにきた。

わたしの母は昔は感情の浮き沈みが激しくて、幼い頃のわたしは、いつも母の機嫌をうかがっていた。でも、母もこうして怒りながら葛藤していたのかもしれないな。自分が子どもを産み育てて初めて親の気持ちがわかるとよく言うけど、子どもがいないわたしは犬によってParenthoodに近いものを学んでいるんだろうなといつも思うのだ。