11.29.2019

大型低気圧の到来によって北カリフォルニア、シャスタへの旅を諦めたが、サンディエゴもまた低気圧の影響を受けていて、冷たい雨が降り続いている。

サーフィンを楽しめる海のコンディションにないし、そもそも外出さえ億劫になる気温と気候だしで、サンクスギビングの日はほとんどずっと家にいて、懐かしい映画を相方と一緒に見まくった。

思えば、こんなにのんびり家にこもったのは久しぶりである。ユパと一緒の時間も十分に持てた。

今年の正月に日本に帰省したときにあまりの寒さにユニクロのヒートテックを買った。サンディエゴでは出番はないだろうがシャスタに行くときに使えるからと思って持って帰ってきたのだが、シャスタに行かなかったその翌日、サンディエゴで出番がきた。

シャスタに行かなかったサンクスギビング、みんなと会えなかったかわりに、わたしは、いまここ、サンディエゴにあるしあわせを改めて実感することができた。雨風をしのぐ家があること、ものすごく優しい相方がそばにいてくれること、その人と一緒に何も特別なことをしなくても笑って過ごせること、かわいい犬がいること、健康であること、好きなものを食べられること、お金に困っていないこと、心配事がないこと。

わたしにとって本当に「感謝祭」といえるような2019年のサンクスギビングであった。

11.27.2019

自分の心の奥の本音が、時々、受け入れがたいことを言ってくることがある。

この度のシャスタ旅行もそうで、ちょうどフライト&車で移動する日が、冬の嵐の警報が出ている最中にあたることがわかり、一瞬、「旅行を取りやめたい」と感じた。でも、次の瞬間、雪のシャスタを見たいし、サンクスギビングにシャスタに集まる仲間たちと会いたいとも思った。久しぶりに、どちらが心の本当の声かわからなくなった。けれど、少し落ち着くと「やめておいたほうがいい」と心が言う。このサンクスギビングというタイミングにシャスタに行くことやみんなと再会することは個人的にすごく意味があることだと思っていたので、「やめておいたほうがいい」という自分が受け入れられず、単なる弱虫なだけじゃないかと、この後、かなり悶々とした。

天気や道路状況を調べてみると、その時点では雪で閉鎖されている箇所があり、チェーン規制もあった。ただ、これは一時的なものだろう。警報は、わたしが実際に移動する日の午後まで出ていてるけれど、その翌日は晴れの予報なので、回復傾向にはあるはずだ。だから、空港に着いて北上できるところまでして、その街で一泊して待機すればたぶん行ける。同時期にシアトルやサンフランシスコからシャスタ入りする仲間たちにも連絡をとったところ、みんな、待機はありえるだろうが、中止することは考えていないようである。

けれど、よくよくニュースを見ると、わたしが帰る頃にもまた低気圧がきて、雪の予報である。たどり着けばあとは安心、というわけでもなさそう…。シャスタで会うことになっている仲間たちは雨や雪に比較的慣れていそうだけど、こちとら年間300日晴れているサンディエゴ在住。彼女たちと自分、運転の力量を同じに見積もってはいかん。これが海であれば、経験則で動ける気はするのだが、山、雪は経験値が低くて、正しい判断ができる自信がない。

ああ、でも、これも単なる恐れで、恐れを心底感じないくらいの心境になれたら絶対大丈夫ってわかるのに、なかなかそう思えない…とかなんとか、とにかく、こんな感じで2日間くらいずっとループ。最近はなにごとも直感で即決してしまってうだうだ悩まないことに慣れていたので、決めきれない自分にもまた苛立った。それくらい、やっぱりシャスタはわたしには大事なのだ。

ステイする予定の宿のおかみさんに電話まで悩んだが、「混乱しているときには何も決められないから、自分の魂に質問をしておいて、夢で答えをくださいと言ってみるといい」と言われ、そうだ、そうしようと決めた。そして夢でちゃんと答えをもらった(と思った)。ようやく心を決めて、キャンセルした。

夢は、事故にあうとか、恐ろしい目にあう、といった警告夢ではなかった。ただ、わたしはサンディエゴにいて、相方と犬と海で楽しく遊んでいた。実際にはサンクスギビング中はこちらも嵐で海は荒れていてきっと楽しくは遊べないだろうが、サンディエゴにいることを選びたいってことだと起きたときに思って決意ができた。

それでも、キャンセルをした後は、がんばれば行けなくはないのに、と自分を責める気持ちは残った。最終的には友達が乗せていってあげられるよとも言ってくれたのに。

でも、本当はどこかでわかってもいた。直感は、心の声は、最初の「やめておけ」だと。でも、みんな行くって言うし、大事なタイミングだし、自分だけがその仲間から弾き飛ばされることが嫌だったのだ。みんなが行かないとか道路がわかりやすく壊滅的だとか、「やめておけ」という声を肯定してくれる証拠を探していただけだ。でも、肯定してくれる証拠はなくて、それでも自分の声を信じるということが今回のチャレンジであった。

これで、「行かなくて正解だった!」と思える、わかりやすいことが起これば、めでたしめでたし、なんだけど、きっとそれはない。サンクスギビングの日は晴れて、無事に着いた仲間たちは雪がやんで晴れた白いシャスタの中にいて、わたしはきっと「がんばればわたしもこの中にいられたのに…」と感じる瞬間に出くわすだろう。けれど、そのうえで、わたしは、自分の声を信じた自分をほめて、「これでよかった」と自分を認める、ということをしてみたい。

さいわい、フライトは払い戻しはできなかったが、クレジットはできて、来年秋までなら同額分を次の旅行で使うことができる。みんなとこのタイミングで会えないことは寂しさいっぱいなのだけど、わたしのタイミングがあるんだと思うことにする。そして、行かないと決めたからには、サンディエゴで楽しい時間を過ごすのだ。

11.23.2019

英会話において、フォニックス(Phonix)を知ってから、格段にリスニングとスピーキングが上達したことは以前も書いた。

また、喋れる喋れないとはまた別に、喋りたいことがなくて会話が続かない、という壁については、そもそも言語の種類に関係ない会話力の問題だと気づき、単発のセッションやセミナーなどに時折参加させていただいているライフコーチ、上野ハジメさんの『会話力の磨き方』のオンライン版に参加させてもらったところ、よく知らない人との向き合い方が根本から変わるくらい開眼。日英どちらでも、そもそも人と世間話をすることが全然苦でなくなったというすばらしい恩恵があった。

その後、『ハーバード式5行エッセイ学習帳』の存在を知り、日頃からさまざまな分野で自分の立ち位置(意見)を明確にしておき、その理由を3つ述べることができたら会話のネタになるということに気づき、話すことがないという課題も少しずつ克服しつつある。

なんでもやればできるもんだなぁ。

英語学習において、さらに最近気がついた意外な盲点は、なんとなくニュアンスで意味はわかっており、自分もそのようなシチュエーションのときは使うことができるのに、日本語訳がすぐにでてこない単語について、「わかっていない」と思い込んでいたことだ。たとえば、日本語で髪の毛を説明しろと言われても髪の毛は髪の毛だよ、となる。英語も同じで、Hairを説明しろと言われても、HairはHairじゃん。Hairを髪の毛と訳せなかったとしても、Hairと言ったときに、Hairをイメージできていたら、それで十分わかっているってことでよいのだった。

思うに、「英語ができるようになる」ことの判断基準が、学生の頃のテストの評価と無意識に同じになっていたんだろうね。思い込みっておそろしい。

もちろん、通訳をめざすなら、そこを瞬時に訳せないといけないと思うが、わたしがめざしているのは通訳ではないので、Hairと言って髪の毛と出てこなくても、髪の毛のイメージができれば、まったく問題ないのである。こうして書くと当たり前じゃんって話だけど、意外と気づけていなかった。

英語に限らず、そのようなことは結構ありそうだ。できていないと思っていることについて、違う視点で見てみたら、案外できていた、という発見が他にもあるかもしれないね。

11.23.2019

アメリカに来て2回目のベイビーシャワーに参加してきた。クリスマスには一族そろってツリーの下でプレゼントを開封するのが通例というファミリーに嫁いだ友だちのベイビーシャワーで、ホストするのは彼女の夫のお母さん。この時間は義理のお父さんさえも家にいることを許されない女性だけの会というトラディショナルなベイビーシャワーで、そのような文化を持たないわたしには全てが新鮮で、とっても楽しかった。

義理のお母さんはさすがにホスト慣れしていて、部屋のデコレーションも素敵で、キッチンカウンターに並べられたお料理もまるでレストランの立食パーティーのような見た目。写真はゲストそれぞれが作った、赤ちゃんのためのヘアバンド。道具や素材は全て用意されていて、その場でちゃちゃっと作れるのだけど、最後に主役の友だちがこの中から一番を選び、選ばれた人には景品(?)があるというゲーム。

みんなの目の前でプレゼントを開封する時間は、中から可愛らしい赤ちゃんグッズが出てくるたびに女たちがそろって「Woo…」とため息つき、「too cute」とか「so sweet」とか誰かしらから言葉が飛び出し、まさに女子会の乗りで、繰り返すけど、楽しかった。

一方、相方はいつものように波乗りに行き、「Fayはどうした?」とおなじみのローカル2人に聞かれたとのこと。「ベイビーシャワーに行っているのでサーフィンはこない」と答えたら、「ああ、そればっかりは義務みたいなものだから仕方ないわね」と同情するような反応を得たとのこと。きっと彼女たちは何十回もベイビーシャワーに参加していて、とりわけクラシックなスタイルのものは「またか」という感じでお腹いっぱいなのだろうけれど、わたしは友達のおかげでちょっとアメリカの文化を体験させてもらえて、うれしかったし、サーフィンができなかったことまったく気にならなかった。

11.22.2019

Mixed Media & Encausticの3回目のクラスで、アート作品を作ることは、文章を書くことと似ていることに気づいた。

どこが似ているかというと、予定していたことと違うことを思いついて、頭で考えていたのと少し違うふうになっていくことがあって、それこそが完成品を面白くするポイントになりえるということだ。

いまはコラージュのパートなのだが、急に「こうしたほうがいい」と思える箇所が出てきた。でも、それはもともと自分が決めていたテーマと少しずれるし、ナンセンスだ…それで先生に相談したら、先生もわたしが「こうしたほうがいい」と感じたアイデアに賛成だったので思い切ってその思いつきを施した。そしたら、作品から放たれる勢いのようなものががぜん変わった。

もしかしたら、多かれ少なかれ、創作活動というものがそうなのかもしれない。文章で言えば起承転結の「転」の部分。文章ではその「転」があると人を引き込む物語になると言われるが、コラージュもまた、この「転」を作ることで、作品がぐっとアートっぽくなると感じた。

ただ、動き出してみないと、この「転」は見えてこない。人によっては最初から「転」までイメージできているのかもしれないけれど、わたしはそうでないようだ。生業の一つとしている文章を書くことでも、書き始める前に大まかな骨子は決めているが、「転」の部分はあまり考えていない。個人的には、そこをあんまり最初から考えていては、「転」のようでいて、「転」にならないんじゃないかと思ったりもする。

動き出すことでひらめく「転」は、当初頭で考えていたことと違うから、戸惑うし、場合によっては「結」から遠のいてしまうのではないかと受け入れがたい。けれど、受け入れて、取り入れてみると、頭で思い描いていたよりずっと素敵なものになる。

この「頭で思い描いていたものと違う」ことは、創作だけじゃなくて、人生にもよくある。思い描いていたよりずっと素敵なものになるならいいけど、思ったより素敵じゃなくなる可能性もある。でも、その、予定していたのと違う部分こそが、この世で生きることの楽しい部分でもあるよな、そんなふうに思った。

11.21.2019

昨日今日と雨模様。久しぶりだとは思ったが、ラジオ番組のDJによれば、5月21日ぶりの雨とのことであった。いやいや、少し前にサーカスを見に行ったときも霧雨に降られた記憶があるので、さすがにそれは大げさでは、と思うが、ラジオが言うんだから、ある程度まとまった量の「雨」と言える「雨」は実際に半年ぶりなのだろう。確かに、初夏にユパ(犬)を迎え入れてから、毎日朝晩の散歩をしているが、雨だった記憶はないのであった。

ということは、ユパにとっても犬生で初めての雨か。

彼にとっては、どうやら裏庭の土がふにゃふにゃと柔らかくなっているのが面白いようで、掘るわ掘るわで止まらない。それだけならかまわないのだが、掘っている途中で急に気が変わって、こちらが止める隙間もない勢いで家に入って来るのが困る。床が泥だらけになるので、呼び寄せて足を拭こうとするも、足を拭かれるのは嫌いなようで、このときばかりは呼んでも来ない。それどころか、逃げてソファーの上に乗ってしまって、ソファーに泥がつくという。でも、犬が悪いわけじゃないし、犬に怒っても何が悪いかわからないだろうから、私はただただ脱力するだけである。

外に出さなきゃいいんだけど、雨で散歩も短めに切り上げているし、裏庭くらい自由に駆け回らせないとストレスが溜まるだろうなぁと思って、つい出してしまう。部屋を汚されるとがっくりくるけれど、でも、かわいらしさのほうが上回る。何を見ても全てに興味津々でおもちゃにしてしまうのは幼い頃だけの、限られた期間の輝きなんだろうと思うとなおさら。

日本で、義父と暮らしているラブラドールのオセロのことをいつも思い出す。散歩で松ぼっくりを見つけると尾っぽを振ってくわえて、ガリガリと噛んで、ガリガリが終わるとポイッと捨てるということを昔はよくやっていたのに、あるとき、もうそれをやらなくなったことに気づいた。ぼんやり生きているといろんなことはあっというまにうつろってしまう。

いまは部屋を泥だらけにしてわたしを脱力させているユパも、いつか「そういえばおとなしくなった」なんて思う日々がくるのだと思うと、愛おしい。

11.17.2019

風邪で体調がいまいちだった一週間。1日たっぷり寝れば回復しそうだという感覚はあるのだけど、いかんせん次の号の印刷締切が間近で、特集の制作担当でもあるため、休むという選択ができる状況にない。今週に限ってあいにく土曜日も気の張る取材が入っていて、土曜日ものんびり眠ることはできず、結局、ひどくはならないけれども、回復の方向に向かう手応えもない体調の日が4、5日続いた。

土曜日の午後まるまる寝て、その夜にようやく、回復の方向に向かったという手応えを得ることができた。

風邪が治る方向に切り替わったことが自分でわかることが結構ある。体調はまだそこまでよくなっていなかったとしても、体が細菌に勝利したかなんかで、これからは大丈夫だと思える瞬間。わたしの場合は、急に掃除や洗濯がしたくなる。したくなっても体力はまだ追いつかないのでしないんだけど。少なくとも掃除や洗濯がしたくなるくらい、気力は出てきたということだろう。

なんで掃除や洗濯なのか、我ながら面白いのだけど、これもまた体からの声なのかもしれないね。戦った細菌たちがいろいろ付着しているだろうものは洗って一新したくなるのかもしれない。

で、土曜日の夜、ここまで書いたところで終わっていた。予想通り、日曜の朝は体調が8割がた回復していた。ただ、サーフィンをするかいなかは、ちょっと悩んだ。今日は胸肩とそこそこサイズがあるので、病み上がりでは体力が持つかちょっと自信なく、体を冷やすのもよくないだろうな…でも、なんとなく脳裏にめちゃくちゃ楽しく乗ってはしゃいでいる自分も思い浮かぶ…ので久しぶりにOリングで自分に聞いてみたら、なんとサーフィンに行けという。それを信じて行ったら、それはそれはすばらしいライディングができていいホルモン大放出されて、8割がたと思っていた体調は、10割治ったと思えるほど完全復活。

仕事のストレスも大きかったんだろうな。アメリカに来てみたら、元気な人がいっぱいいて、そんな中でわたしはどうも体弱い子みたいに言われちゃうんだけど、わたしとしては、大変素直で、キャパオーバーになるとすぐにサインを出してくれる、ありがたい体、と思っている。無理ができないって、考えようによってはすごくありがたいことなんだ、と。