11.11.2019

総合病院の産科に勤めていた友達が、以前「新しい命が生まれたその日、隣の病棟では誰かが亡くなっているということは日常茶飯事だ」というようなことを言っていた。

わたしは病院に勤めたことがないので、その言葉をリアリティーもって実感はできないのだが、でも、この、同じ瞬間に、泣いている人もいれば笑っている人もいる、ということは常に意識にある。

やっかいなのは、メディアが発達して、「泣いている人」はこれまでなら知らなくて済んだはずの「笑っている人」の存在をSNSなどで見ることができること。逆もまた然りで、「笑っている人」もまた「泣いている人」が存在することをSNSで見ることができるため、「笑っている人」は、笑っていてはいけないかもしれない、なんて自制するようなことが時々発生しているかもしれない。

わたし自身は、自分が「笑っている人」であるとき、世界には「泣いている人」がいることを承知で、「笑っている人」であり続けるようにしている。具体的にはSNSで遠慮しない。

というのも、自分が「泣いている人」であるときに、この世界のどこかに「笑っている人」がいることは、むしろ救いだとわたしは感じるからだ。いま猛烈に悲しいのはわたしだけで、猛烈に楽しい人が同時に存在するなら、世界は悪くなる一方じゃないと思える、と。

こういうふうに捉えられるようになったきっかけは、もしかしたら、2011年の東日本大震災だったかもしれない。東京は、東北に比べたら被害なんてなかったといって等しいが、計画停電があったり、水やトイレットペーパーが店頭から消えて買えなくなったり、ちょっとしたパニックが続いて、日本はこのまま壊滅してしまうのではないかと思うくらい恐ろしかった。

けれど、当時まだ元気だった亡夫の提案で京都に逃げたら、京都はびっくりするくらい平常で、電気もあかあかと灯っていた。たまたま入った電気量販店で「東京から逃げてきた」と店員さんに伝えたら、「ああ、なんか、大変だったみたいですねぇ」と他人事のようなのんきな答えが返ってきた。そのとき、なんと意外なことにわたしはほっとしたのだ。東京はいまパニックで、東北はとんでもなく大変なことになっているけれど、関西がこんなに平安なら日本は終わらない、と。もし万一、東日本が壊滅しても、西日本がある、と。

この瞬間「泣いている人」も明日には「笑っている人」になりうるし、逆にいま「笑っている人」も次は「泣いている人」になりうるし、どの土地だって被災地になりうるし、また被災地を支援する立場にもなりうる。

この間、介護士の女の子が言っていた。痴呆症のおばあちゃんは、未来の自分だと思って接している、と。当たり前のことを言っているようだけど、意外とその感覚を腹に落としている人は少ない気がする。目の前のその人はかつての自分かもしれないし、未来の自分かもしれない。すべての存在を自分だと思えるようになったら、そのときはまた世界の見え方ががらりと変わるだろうね。

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