12.13.2019

 家族を亡くした人や、家族が大きな病気をしている人に、自分の経験を通して何かよい言葉をかけられたらいいなぁと毎度思うのだが、結局何もいい言葉を見つけられないのも毎度のことだ。

 置かれている状況も、その事態に直面している人たちの性格や考え方も、それぞれに違うので、自分の経験が役に立つなんて思うこと自体、おこがましいのだろう。わたしはただ、「気にかけているよ」「何かあったときは頼ってもらう準備ができているからね」ということを伝えるしかできないし、それでいいのだろうとも思う。そして、それは、別に「自分の経験を役立てる」というものではなく、誰でもができることで、何ら特別ではない。

 だから、特別なことは何もできないけれど、自分が若い頃に伴侶と死別を経験していますよということはわりと積極的に言っていきたいなと思っている。何ができるわけじゃないけれど、わたしはその経験をして、それでもいま生きているし、何ならしあわせに生きてもいますよ、というひとつのロールモデルになればいいなと。

 悲しくなかったわけじゃないし、人より悲しみが軽かったのだとも思わない。急死で別れる場合、心の準備ができていなかったというつらさがあるだろう。でも、病死で別れる場合は、どんどんと弱り、元気がなくなっていくその人を見守って、一緒に死を見つめていくという、また別のつらさもあるのだ。トイレに自力で行きたいという夫を背負って歩いた廊下の冷たさや、夫の驚くほどの細さと軽さ。彼がいなくなった後を、彼がいるときに考えざるをえないという後ろめたさと心細さ。話が広がってしまったが、どういう形であれ、誰かがいなくなるときにはつらいのだ。本人もつらいのだろうが、その後も生きなきゃいけない残されたほうがつらいとわたしは思っている。

 夫を亡くした後、夫と飼っていた愛犬に(心のどこかで)執着していたわたしは、今年、自分の家に犬を迎え入れたことで、本当に、新しい家族を作る決意ができた気がする。いや、決意がどこかでできたから、犬がやってきたのかもしれない。

 いずれにしても、7年かかった。これが速いのか遅いのかはわからない。自分のことを言えば、だいたい3年くらいで、一段抜けたかな、というときがきて、さらにそこから4年で、ああ、本当に抜けたかもしれない、となった。

 誰かの参考になればと思って書いてみた。なんでもいいからとりあえず息だけしてしのいでいたら、いつかはあのときと違う世界にいる自分に気づく。よくできたもので、本当に抜けたあかつきには、あのときと違う世界にきてしまったことを哀しいことのようには思わない自分がちゃんといる。

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