12.16.2019

伊藤比呂美さんのエッセイを読みあさった後、久しぶりに村上春樹さんの「職業としての小説家」を読んで、お二人が書いてくださっていることは、「自分である」ということの大切さなり、ご自身で辿り着いた「自分である」ための方法なりであって、それはつまり引き寄せの法則でおなじみのエイブラハムが言っていることと本質的には変わらないらしいということに気づいた。
わたしはといえば、螺旋階段を一周回って、かつていた場所の一段上に辿り着いたような気分だ。比呂美さんの本にも春樹さんの本にも答えは書いてあったのに、かつてのわたしは、わかったいたつもりで、わかっていなかったのだなぁと。当時は頭だけでわかったつもりになっていて、結局、実行していなかった。実行していないということすらわかっていなかった。
そうして頭打ちになったところにエイブラハムなどの教えがやってきた。これはかなりわかりやすい実践編だったので実践ができた。実践(実行)したら、世界の見え方が変わった。世界の見え方が変わったから、ようやく昔読んだ本に書いてあったことと、同じことだったのだとわかるようになった。当時は知っているつもりでわかってはいなかったということもわかった。
だいぶややこしい言い方になったが、そういうことだ。こればっかりはわからないと、わからない。とにかく、わたしが尊敬する人生の先輩がたは、わたしがエイブラハムに答えをもらったようなことを、試行錯誤して、ご自身でちゃんと見つけていらっしゃって、それを後輩達にちゃんと共有してくれていたのだ。誰も教えてくれなかったんじゃない、自分が受け取っていなかっただけであった。
ああ。30代のわたしに、言ってあげたい。「おまえはいろいろわかったつもりになっているけれど、人生というのは、世界というのは、もっともっと深遠であるぞ。おまえはその一部しかまだ知らないぞ」と。同時に80代の自分にも言われている気がする。「ようやくいろいろわかった!などと言っているけれど、それはまだまだ深遠な世界のほんの入口にしか過ぎないぞ」。
なんだか、サイエンスフィクションみたいだけど、でも、わたしは、時折そんな気がするのだ。あのとき、すごく大変だったとき、未来のわたしが、「大丈夫、大丈夫、その先に明かりがある」と応援しているかすかな声が聞こえたから生き抜いてこれたんじゃないかと。いまも、何かあると、これを切り抜けたあとの未来のわたしが声をかけている気がして、ならばと踏ん張れる。これは見方によって独り相撲という。でもわたしがしあわせならばいいではないか。