02.03.2020

義理のお父さんから、お願いしていた書類とともに、地元のおせんべい屋さんのおせんべいが送られてきた。一枚一枚丁寧に包まれている、分厚くて大きいおせんべい。ああ、これはアメリカにはない。日本の食材には困らないカリフォルニアでも、これは手に入らない。そもそも大量に流通していないローカルの店であるってことも魅力であり、その魅力を保持する限り、わたしの手元には簡単に届かないのだ。ああ。いまの暮らしが最高にしあわせでも、それとは別にホームシックはあって、わたしはいつも心のどこかで鵠沼が恋しい。だけど、一方で、わたしが恋しがっているのは鵠沼という土地だけではなくて、亡くなった夫と犬と義理のお父さんと暮らした、鵠沼でのあの日々のことなのだろうとも感じている。だから日本に戻ったところで恋しさは変わらないだろうと。過去を振り返ってめそめそしているわけではなくて、ただ、意識の中には、その恋しさはいつもあるのだということ。そこに焦点を当てているか当てていないかだけで。夫を亡くした寂しさについてもそう。その寂しさは、いましあわせであることとなんら関係なく、意識のどこかにはある。その意識に強く焦点が当たるときとそうでないときがあるだけの違いで。最近はむしろ、その恋しさなり寂しさなりに焦点が当たる時間を楽しんでもいるかもしれない。亡くなった夫と生きたあのわたしが、いまのわたしの中に確実にいるということを、わたしは確認し続けて生きたいのだ、おそらく。

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