03.11.2020

カフェの入口で取材相手を待っていたら、目の前で発砲があった。目の前と言ってもそこは駐車場でわたしの前には大きな車が停まっていて視界は遮られており、目撃したわけではない。ただ、パンパンと突然音がした。最初はどこかの車が何かを踏んづけたのだと思った。しかし、しばらくしてまたパンパンと音がした。それで、銃声だと認識した。状況からして、不特定多数に向けられた発砲ではないことは明白だったので、わたしはただ下手に動かないようにしようと思い、息を潜めるような気持ちでその場に立っていた。

音はすぐにしなくなり、近所の店から人々が様子を見に外に出てきた。わたしの視界は相変わらず車で遮られていたけれど、彼らの様子から、けが人が倒れていたりするわけではなさそうなことがわかった。そのうちの一人が電話をかけて警察に知らせているようだったので、わたしは現場を離れてカフェの中に入った。

カフェに入ると奥は静かで、何事もなかったかのようだった。実際にそこで待っていた取材相手(わたしは外で待ち合わたつもりだったが相手は先に中にいたのだった)には銃声は聞こえなかったと言う。取材は普通に終わって、わたしはずっと落ち着いていたが、カフェを出たら駐車場にPolice Carがたくさん停まっていて、付近は黄色いバリゲードで封鎖されていた。そこでようやく発砲は本当だったのだとリアルに感じられるようになって、気持ちがわさわさした。

わたしの車はぎりぎり免れたが、取材相手の車はわずか1列の違いで現場検証のエリア内に入ってしまい、彼女は車に戻ることができず、車から荷物を取り出すことも許されなかった。わたしはどこに停めるかちょっと悩んだことを記憶していて、あのときの判断のおかげで、自分の車はすぐに出すことができるんだなぁと、本当にちょっとの差が生んだ違いについて思いを巡らせた。発砲があったとき、わたしは車を降りて道端に立っていた。あれもまた、ちょっとの差で、巻き込まれた可能性があったかもしれない。

治安はいいといってもやっぱりアメリカは怖い…そんな話で片付けてしまいそうだけど、いやいや、ちがうちがう、それこそ思考停止だよ、と心の声がした。

どこに住んでいても何をしていても、普通に暮らしているのに事件や事故に巻き込まれる可能性は、いつだって必ず隣り合わせにあるのだ。そういう意味ではウイルスに罹患する可能性も似たようなものだ。心配しすぎていたら、外に出ることができないし、じゃあ、外に出なければ安全なのかと言えば、そうでもない。ある特定のものを避けるのに家はいいかもしれないが、別のものを避けるのには家は向いていないということも多々ある。

心配していたら何もできない。それこそ生きることをやめるまで心配は続く。かといって「ポジティブ」とまるでいいことのように言葉を置き換えて能天気でいることがいいとも思えない。たとえば治安の悪い場所にはあえて行かないとか、事故が起こりそうな状況なら出かけないとか、注意深くあることで避けられることなら避けるのが賢明であろう。

わたしにできることは、注意深くはするけれど、心配はしない、ということだな。そんなふうに思った。その夜、読み途中のパラマハンサ・ヨガナンダの『Man’s Eternal Quest』を開いたら、次の章のタイトルが「Cautious but Not Fearful」であった。

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