03.22.2020

家の中に迷い込んできた蜂がいた。

出口がわからなくなった蜂は、
閉まった窓ガラスに向かって懸命に飛んでいた。
差し込んでくる光を頼りにしているのだろう。
すぐ左には全開の窓があるというのに、
それには気づかず、目の前を仕切る透明の窓ガラスに
蜂は一心不乱にぶつかり続けていた。

わたしはしばらく見守っていたが、
蜂が弱ってきた様子が目に見えたので、
そのへんにあった紙を差し出し、
必死にしがみついてきた蜂を左の窓から外に放った。

これまでの自分だったら
「光が見えてるのにどうにも手に届かないときは、
目の前じゃなくて、左や右や後ろを見てみると
意外な突破口があるかもしれない」
とか、
「もがきつづけていれば、
思わぬ救いの手が差し伸べられるのだ」
というような教訓と捉えそうな出来事だ。

でも、今回思ったのは、それとは違うことだった。

時と場合、そして物事によっては
視点を変えたところで出口が見当たらないこともある。
そもそも出口がない問題にはまっている可能性だってある。
待っても待っても救いの手が現れないことだってありうる。
望んでいたような救いがもたらされたとしても
もっと大きな視点から見たら
それが本当の意味で救いであるとは言い切れないことだってある。

わたしが今回、思ったのはこういうことだ。
「どんな経験だとしてもその経験が
自分という人間に付け加えられていく、
それこそがきっと生きるってことだ」

もがいてもがいて出口が見つからなかった経験、
視点を変えてみたら出口が見つかった経験、
神の救いのような手助けにより出口が開いた経験、
経験したことが何であれ、全てに応用はきかないから、
学びとして全てに適応することは難しい。
でも、経験によって試行錯誤したことや、考えたこと、
泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりしたこと、
全ては「これまでの自分」に何らかの形で加味される。

一人の人間として人生を生きるということは
たぶんそれの繰り返し、もしくは積み重ねなんだろうし、
そうやって自分のうちなる土壌を
豊かにしていくことなんだと考えるようになった。

そう考えると、たとえいま経験していることが
悲しみだったり失敗だったりしても
それもその人の土壌を豊かにするという点では
良い悪いもポジティブもネガティブもないってことになる。

あなたもわたしも
今日もいつもと変わらぬ1日を過ごし、
何も目に見えて成し遂げてはいないかもしれないけれど、
生きているだけで
昨日より確実にそれぞれの土壌を豊かにして拡大しているのだ。

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