06.18.2020

相方としゃべりながら犬の散歩をしていたら、近所に住んでいると思われる、よく見かける少年が「ねえねえ、何語をしゃべっているの?」と聞いてきた。「日本語だよ」と答えたら、「日本語なら僕も少し知っている」と返ってきた。

サンディエゴあるあるで、この後はだいたい「コンニーチワ」か「オハヨゴジャイマス」か「アリガトゴジャイマス」がくるのだが、少年の口から出てきたのは「サヨーナラ」だった。意外というほどではないけれど、そういえばこれまでそんなに「サヨナラ」が出てくるパターンはなかったなと気づいた。少年のキラキラとした瞳と、「サヨナラ」という言葉が持つ響きと意味とが合致しなかったせいか、妙に印象的だった。

サヨナラ。

その出来事のおかげで、わたしがコピーライターとしてフリーになってからお世話になった大先輩コピーライター、迫田哲也さんが書いた「サヨナラ、の話をします」という文章を思い出した。どこで見たんだっけと探したらここにアーカイブが残っていた。

日本語以外の言語では別れの言葉はたいてい、別れる相手の幸福を願うか、再会を約束する意味であるのに、日本語の「サヨナラ」は、相手と一緒にいることを諦める、断念する言葉、という話。

迫田さんは文章の最後でこう書いている。「これまでの人生にいくつもあった、わたしたちのサヨナラは、彼女が書いてくれたように美しい言葉だったかどうか。」

わたしも胸に手を当ててみたが、改めて考えると人生においてきちんと「サヨナラ」と言って人と別れたことは意外と少ない。

亡くなった夫とは、最後であることを互いに意識したような会話を最後にしたけれど、「サヨナラ」とは言わなかった。卒業などは別れであるが、友達とは別れない。友達と別れるとしたらなんとなく疎遠になるだけなので、言葉ではっきりと「サヨナラ」はしない。アメリカに来るときは、日本の家族や友達と離れることになったけれど、家族や友達でなくなるわけではないから「サヨナラ」とは思っていない。

そうやって考えていくと「サヨナラ」をはっきり言ったことがある記憶は、付き合っていた相手とお別れするときくらいであった。

「サヨナラ」をなかなか言わないのは、迫田さんの言うとおり、「サヨナラ」が「相手と一緒にいることを諦める、断念する言葉」だからかもしれない。日本語の別れの言葉がGood byeや再見であれば、わたしはもう少し気軽に頻繁に使っている気がしなくもない。

諦めること、断念すること、それをしたくなくて、わたしは「サヨナラ」とは言わずに、「またね」と手を振ることを好む。

亡くなった夫にさえ、わたしは「またね(いつか、どこかでね)」とどこかで思っている気がする。

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