08.10.2020

「起こっていることはどんなことであれ、ベストである。自分の視点からはそう見えなくてもより大きな視点から見たらベストである」。というような考え方を知ったのはもうずいぶん前で、なるほど、そうだと納得もし、ずっと信じてきた。しかし、「信じる」ではなくて、そうと「決めて」しまえばいいのか!と目から鱗が落ちたのはそれこそ数年前であった。すごく微妙なことなので伝わりにくいと思うのだけど、「そう思おう(信じよう)とする」と「そう決めてしまう」は、雲泥の差であったと、この数年でめちゃくちゃ実感している。

たとえば、昨日、わたしは、Aというサーフスポットでサーフィンがしたかった。ところが、瞑想したり、犬の散歩したり、なかなか起きてこない相方を気を使って起こさずにいたりしているうちに時間が過ぎ、着いたころには駐車場は満車。わたしはAでサーフィンがしたかったのに、なぜそれが叶えられなかったのだ!? 引き寄せができなかったのはどこかで間違えてたんだ…。もっと早く起きていれば。っていうか毎日瞑想ってやっぱりキツい。っていうか、犬の散歩がなければ間に合ったのに。いやいやそもそも相方がもっと早く起きてくれればいいのに。と以前なら後悔というか反省というかイライラが出てきたと思うけれど、今は「なんであれ起こっていることがベスト」って決めてしまっているので、後悔とか反省とかイライラとか、そもそも考えてもこの状況を変えられないことにエネルギーを使うことはなくなって、その変わりに、「駐車場がいっぱいで入れないけど、なんかしらないけど、これがベストなんだな。としたら、じゃあ、次、自分はどうしたいか?」を瞬時に考えられるようになった。結果的にめちゃくちゃストレスが減った。

で、このとき、わたしは、「じゃあ、Aというスポットにこだわらなくてもいいかな。Bに行こう」と思えたのでそのまま移動をした。もともとAをめざしていたことを考えると、Bは妥協案に見えるかもしれないけど、Aがダメだった時点で考え直して出したベストだから、やっぱりこれもベストな選択なのだ。実際にBに行ったら仲間のサーファーがたくさんいて、波はイマイチだったけど、数は乗れて、おしゃべりもできて、すこぶる楽しかった。Aには行っていないからどちらのほうが楽しかったかは比べようがないけれど、Bで楽しく過ごせたのだから、いいのだ。

それで、気づいたんだけど、「起こっていることは全てベストであると決める」ことは、見方を変えると「起こっていることを全てそのまんま肯定的に受け入れる」っていうことなんですね。わたしの場合は「受け入れよう」とすることより、「なんでも全てがベストであると決める」ということのほうがしっくりきて、取り入れてみたら、結果として、受け入れるということを学んだわけだ。

何が言いたいかというと、真理なり人間的成長なり霊的成長なりをめざすための教えというのは、どれでも結局、手を変え品を変え、同じようなことを伝えているということ。だから、自分がピンときて、試してみてしっくりくるものを道として選べばいい。どこの道からでも辿り着くところはきっと一緒だ。

もちろん、サーフスポットAとB、どちらにしようかっていうのは、命にかかわるわけでもなし、正直、そもそもものすごくどっちでもいいことだ(笑。でもその、どっちでもいいことにこれまでは感情のエネルギーをだいぶ使ってしまっていたってことでもあります)。何かもっとシリアスなことが起こったときに、「起こっていることは全てベストであると決めた」を実践できるかはわからない。だけど、それこそ起こっていないことなので、それについて考えてもしょうがないし、起こっていないんだから知らんがな、である。

とにかくわたしは生きるのがとんでもなく楽になってしまって、昔、生きづらかっただけに、今生きづらいあなたもここまで楽になれるのだよと伝えたくて仕方ないという暑苦しい状態になっている。とは言いながら、わたしにできるのは、「わたしであること」を「選択しつづける」だけだけども。

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