08.19.2020

大好きで何度も行っているシャスタだが、エリア内のどのスポットに最も心を惹かれるかはその時々で異なる。だから、きっとセドナもそうだと思う。今回の旅に関して言えば、一番心に何かを感じたのは四大ボルテックスと言われる中でも、Boynton Canyonであった。

そのことを、ガイドしてくださった、絵里さん(陽だまり in Sedona)に告げると、彼女はこんなことを教えてくれた。「ここは先住民にとって本当に大事な聖地で、なのに聖地の中にホテルが建設されてしまったから、ネイティブアメリカンの過去生がある人には痛みや悲しみがある場所なんですよ」。わたしは自分もネイティブアメリカンの過去生があると信じて疑っていなかったが、痛みや悲しみがないということは、よほどの鈍感か、ネイティブアメリカンの過去生があるというのが完全な勘違いなのだと思った。

ところが、この聖地の一番上に立ったときに、インスピレーションが降りてきた。わたしはネイティブアメリカンであったこともあったし、開拓者や開発者や支配者であったこともあるのだ、と。つまり、どっちもわたしやられる方を経験したこともあれば、やる方を経験したこともある。なんなら、すべては一つで「わたし」も「あなた」もないから、「やる」も「やられる」も同時にどっちも体験しているとさえ言えるのだと。

インスピレーションはさらに続いた。

なんであれ、起こったことは、神(としか表現しようがないが、サムシンググレート、宇宙の意志のようなもの)が許したから起こったのだ。たとえ、それが一見どんなに残虐なことだったとしても、人間のエゴが起こした過ちだったとしても、神が許さないことは起こらない。だから、嘆いたり悲しんだりと、起こったことに対して反応しているだけでは進まない。「何が悪かったのか」という原因探しも同様で、同じレベルでぐるぐるするだけだ。

神が許さないことは起こらないから、では、「なぜ神がこれを許したのか」と考えてみること。そうすると、ひとつ上の視点から物事を見られる。次のレベルの意識に拡大できる。これは全てにおいてそうである。もし、病気になったとして、「なぜ病気になったか」を肉体レベルで探るのは「何が悪かったのか」という原因探しまでしかできない。原因を探すことは大事でないとは言わないが、より深く根本から癒すにはもう一段の階層を上がったほうがいい。その方法が、「なぜ神が病気になることを許したのか」という視点で眺めることである。ただ、この視点で見るためには、前提として、「自分は(他人も万物も)神の子であり、神の子であることを許容さえできていたら全てはあるべき状態にパーフェクトにある」ということを信じる必要があるけど。

とにもかくにも、そんな霊感を得て、しみじみしていたら、大地に虹がかかって、わたしの心はかなりときめいた。そして、起こったことは全て神が許したことだ、ということは、起こったことは全て肯定的に受け止めてよい、ということでもあって、わたしは、いままでの自分ぜーんぶがこれでよかったのだと、いまもこれでいいのだと、心の底から思えた。

もし一言だけキーワードをあげるとしたら、「受け入れ」がこの旅のテーマであった。そして、あとから知ったんだけど、この日が、13の月の暦で数えると新年の元旦だったということもスピッ子には興奮ネタであった。ベリベリと分厚い皮をはいで、なんだか次のステージの扉が開いたみたいだ。

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