今日のつぶやき 08.27.2020

最近流行の言葉でいうと、わたしはHSP、「ハイリーセンシティブパーソン」の特徴をかなり持ち合わせている。ちょっと前に流行った言葉でいうと、共感力が極端に強い「エンパス」の特徴を読んだときも、「これはかなりわたしに近い」と思った。もっとスピリチュアルな世界の人たちからは「インディゴチルドレン」とも言われた。思えば「インディゴチルドレン」という言葉に出会ったのは10年以上も前であるが、そのとき、なんの根拠もないのに、「そうそうそうだ! だから生きづらかったんだ〜」とものすごく腑に落ちて、一見するとなんの苦境もないのにずっと生きづらかった自分を肯定してもらえた気がして安堵もした。
でも、あれから10年以上が経って、あの頃から考えられないほど解き放たれたわたしは、いまは「それはそれ、これはこれ」と捉えるようになった。たしかにわたしはHSPかもしれない。エンパスかもしれない。インディゴチルドレンかもしれない。でも、どうであれ、「どういう自分で在りたいか」は選べるし、選べば(選ぶと決めれば)、在れる。単に年を重ねて図々しくなっただけ(と母は言う)かもしれないけど、繊細で、過敏な自分は持ち合わせたまま、でも、その繊細で過敏な自分で大荒波のようにエネルギーが渦巻く場所でも自分であり続けるということができるようになって、いまはそんな自分が大好き(笑)。
大荒波のようにエネルギーが渦巻く場所に出ても疲れない自分でありたい、なんならその場のエネルギーを整えるくらいの自分でありたい、というのは、あくまでも「わたし」が「そうありたい」という自分。だから、皆さんにそうなりましょうと言いたいわけじゃない。とにかく、自分がどんな人間か、というよりも、自分はどういう人間でありたいかのほうにフォーカスをシフトできたときに、そちらへの流れが生まれるのだと、自分が経てきた過程を振り返って思うのです。
もちろん、HSPと診断されたことでほっとするなら、まずはそこにいていい。けれど、だからって、なりたい自分になれないわけじゃないということは覚えておいたほうがきっと楽しい。昨日の投稿と似ているけれど、いまの自分の特徴を受け止めることと、そのうえでどうしたいかを決めることは別物で、出発点はどこでも、目指すところは自由に決められるし、決めれば作り出せる。
もっと言えば、「なりたい自分」としてイメージできる姿は、じつは本当の自分に一段近い自分なのだといまは思うようになった。自分にその要素がなければなりたいなどと思い付きもしないのだと。だから、わたしにとっては「なる」というより、「そのわたしを出してあげる」という感覚。でも、とにかく、最初のステップは「自分は○○○な人だから…(たとえば、HSPだから…)」と自分でカテゴライズしている制限をはずすこと。その先には、本当にびっくりする世界が広がっている。わたしは40代になってようやくそれが見えたけど、もっと若いうちにやれていればなお楽しかったなぁと思うので、もう少し若かったあの頃のわたしに伝えるような気持ちで、しつこく書いてみる。