09.29.2020 今日のつぶやき

仕事で月に1回くらい定期的にメールのやりとりをする方がいる。ダンディーと評判の男性で、やり手の経営者でもあり、いつか直接お会いする機会があるといいなと(変な意味ではなく)思ってはいるのだが、叶わずにいる。その方と、先日、いつものメールのやりとりが発生したので、結婚して苗字が変わったことを伝えたら、なんとその日のうちにオフィスにお花が届いた。ダンディーな経営者はさすがやることが違うと感心しきり。
ここ数年で自分が変わったのは、こういうことが起きたときに、「それ、素敵! 素敵だから、そのやり方、自分も採用しよう!」と思えるようになったことである。今回でいえば、ぱっとお花を送っちゃうというやり方。そんなに親しい間柄じゃなくたってお花をもらって嫌な気分になることはまずないわけで、そんなふうに人を喜ばせるの、かっこいいなと。では、自分も、そのやり方、採用しよう、と。
人がやっていることで、素敵と思ったことは自分でもやってみる。これ、できる人は最初からやってるんですよ、きっと。だけど、かつての私は「素敵〜」の後にいちいち、「ああ、わたしはこういうことをやっていないな…ダメだなぁ」と自己評価を下げるような思考回路を持っていたのだ。そのうえで、「これからは、ちゃんとやろう」と思うわけだが、それって、「できていないからダメ」→「ダメじゃないようにできるようになろう」の流れだから、自分をハッピーにしないんですよ。自己否定から始まっているから、やろうとしても結局、途中で疲れちゃってできない。できないからますます「私にはできない…できる人はすごいなぁ」となる。
「それ、採用しよう」の場合、自分ができていないことをやってみるっていうアウトプットは同じなんだけど、出発点が違う。そこには、今、できていない私はダメっていう発想はない。今できていないのは、今できていないという事実なだけで、そこに良い悪いもない。そして、やってみたいというのも、単に「自分はそういうことをやれるようになりたい」というだけで、それをやれる人が良い、やれない人は悪い、ということではない。言葉で書くと本当に些細な違いなんだけど、そのわずかな意識の差で生まれるエネルギーには雲泥の差がある。いや、自分はどちらかというとポジティブだし、自己否定もそんなにないと思っていたんですよ、私。でも、今になって振り返ると、そりゃ、疲れるわな、っていう思考回路だったなってわかる。わかっているつもりで、わかってなかったなぁ。
そして、「それ、採用しよう」という発想ができるようになってますます気づくことは、私は亡くなった夫のようになりたいのだなぁということだ。お花をさらっと送るとかも実に亡夫がやりそうなことである。亡くなってしまってそばにいないから、彼のようになりたくなったのか、それとも、もともと無意識に憧れがあったから好きになったのか。どっちもある気がしている。
前にも書いた気がするけど、亡くなった夫と一緒にいるときは、彼が面白いことを企画し、私はそれに便乗する側だった。忙しく動き回っているのは亡夫で、私は「もうちょっとのんびりしようよ」と彼を休める役割だった。今、相方とは役割分担がまったく逆。面白いことを企画して新しい場所に連れ出すのは私で、相方はのんびりしようと私を休める役。人生は不思議だ、というか、人間は不思議。「自分はこういう人」というのを取っ払うほど、生きるのは面白くなる。少なくとも私はそれを身をもって体験中。