10.08.2020 今日のつぶやき

撮影で湖を訪れた。なんてことない、普通の湖。人々は楽しそうにピクニックをしたり、釣りをしたり、ジョギングしたりしていたが、わたしは得体の知れない、しんみりしたような、さみしいような気分に襲われた。それまでは普通に元気だったのに、この公園はなんだか気がよくないのかなぁ…なんて思って撮影を終えたらそそくさと退散した。

家に帰って写真を整理しているときに、気づいた。この景色、実家の近くの沼(といっても今日行った湖より大きい)と似ていると。そして、ハッとした。まだ実家に住んでいた頃、さみしいとき、これからについてどうしていいかわからないとき、意味なく悶々とするとき、そんな、しんみりしたような、さみしいような気分のときには、いつもその沼の周りを散歩していたのだ。似たような風景の中に身を置いたことで、体の細胞だか脳の奥の何かだかが条件反射的に、しんみりだったりさみしさだったりのような反応をしたのではないか!?

もちろん根拠のない憶測であります。本当にそうかを突き止める気はない(突き止めようもない)。ただ、おかげで、あの沼を歩きまくっていた日々のことを思い出せたことはよかった。まだ若かった頃のわたしは感受性が強くて、いろんなことに反応しては疲れ、傷ついていて、自然の中に一人で行くことが、癒しであった。当時まだサーフィンもしておらず海の近くにも暮らしていなかったわたしにとっては実家近くのその沼が一番身近な大自然であった。

前の夫が亡くなった後も、確か実家に帰ったときに、そこを歩いた。木蓮の蕾をカメラに収めたことを覚えている。わたしは息も絶え絶えにただ生きているのが精一杯なのに、そんなことを知ってか知らずか普通に春が来るということがきつかった。

前にも書いたけれど、わたしは死別の喪失を乗り越えてはいないのだと思う。意識の中には悲しみや痛みがきっとまだあって、でも、その悲しみや痛みに焦点を当てないでいるっていうことを学んだように思う。そして、今回の湖のように、痛みや悲しみを思い出させるようなものから巧妙に距離を置いているような気もする。日本を離れたのも、悲しみや痛みを思い出させるものから逃げるためだったようにさえ思うこともある。 

何かの漫画で、ボーイフレンドと別れた女の子のセリフで、「つらくて胸が痛くて苦しいのに、わたしはプリンを食べていて、プリンは美味しいと思う」みたいなのがあって、今も心に残っている。死別した当時、生きている意味がわからんなー、生きる気力がないなーと思いながら、海で波に揉まれたら必死に這い上がっている自分がいて、「生きたいんじゃん、自分」と突っ込んだのと同じ。人間は、なんだかんだ言って死ぬまで生きる。どうせ生きるならとことん生きよう。ということを20代のうちに思っていれば人生違ったなぁと思うが、まあ、わたしにはわたしの順番&ペースで学ぶ必要があったのでしょう。

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