使命は自由に決められる

使命というのは天命で、与えられるものだと思っていた。私にはどんな使命が与えられているのだろうと、ずっと探していたような気がする。最近になって、使命感を持って生きている人たちにインタビューをする機会が増え、唐突に私は気づいた。使命って、自分で決めていいんだ、と。いや、使命って、自分で決めるものなんだと。
もちろん、天賦の才というのもあるだろうし、時代や環境というものもある。けれど、その才能をどう使うかを決めるのは自分だし、自分に来た流れや身の回りにある環境をどう捉えて生かすかを決めているのも自分だ。才能や、生まれた時代や環境というのは、ある意味では天から与えられたものであると言えるかもしれないけれど、でも、持っている才能も、生まれた時代も環境も、それを生かして動こうという意志がなければ動き出さないのだ。何であれ、「これを使命と思ってやろう」と自分で決めたとき、それが使命になる。決めるということが大事で、決めるとエネルギーが定まって、物事が動き始める、そういうことなんじゃないかと。
突然そんなふうに思えるようになった私は、今度は「自分の使命を決めよう」と決め、「では、何を自分の使命ってことにしようかしら? よりどりみどりだわ〜」とわくわくしてこの数週間を過ごしていた。ここで大事なのは「自分の使命を見つける」と決めたわけでないことだ。「自分の使命を決める」と「決めた」のだ。禅問答のようだけど、私が思うに「見つける」では主体性が足りない。まだ与えられるのを待っているような空気がそこにはある。私が「決める」という言葉にこだわるのは、自分の意志の存在を感じるからである。自分の意志であるというのがとってもとっても重要なのだ。
そんなふうにして数週間前に、「自分の使命を決める」と「決めた」私の脳は、それはそれは面白いほどに、そのアンテナに引っかかる情報やら人やら物事やらを集めてきた。もちろん私が意識してそれらを選んでいたわけじゃない。その情報に触れたとき、その人に会ったとき、その出来事が起こったとき、いちいち心を動かされて、そのたびになんらかの気づきがあって、それらが全て「自分の使命を決める」に通じていると、あとから思い至っただけである。
その結果、私は決めました。私の使命は、「誰かの、そして人類の、より良い未来のために、必要と思われる情報、人、出来事をわかりやすい言葉にしてより多くの人に伝えること。それによってより多くの人たちの心を動かすこと」にしようと。ライター、編集者生活23年(!?)にして初めて、ライター、編集者という仕事は自分の使命であると心から思えた2020年はもしかしたら記念すべき1年かもしれない。冷静に考えると、なんで23年もかかっちゃったんだって話でもありますが。
6年半前に渡米するまで、私は「お金をもらう仕事となると自分の好きな人ばかりを取材できるわけじゃない、自分の書きたいことだけを書けるわけじゃない」と思っていた。それゆえに、ライターやコピーライターの仕事から一度離れて、セラピー業界に行こうとしたこともある。でも、今は、わかる。「自分の好きな人ばかりを取材できるわけじゃない」「自分の書きたいことだけを書けるわけじゃない」と自分で思っていたからそういう現実にいただけだと。それはもう本当にクリアにわかる。なんでそんなふうに思ってしまったかはもちろん理由があって、簡単にいうと自分が評価されることを巧妙に避けてきたのだ。書いたものを悪く言われても「私が書きたいものじゃないから」という言い訳があれば自分を否定されたわけじゃないと思える。その根底には自己肯定感の低さっていうものがあったわけだけど、まあ、それは長くなるので端折ります。
今の私は会社勤めで、フリーランス時代より自由はないように思えるのに、気づけば、取材したい人を取材し、やりたい企画を実行しているという現実がある。もちろん、取材したい人と思う人すべてに取材できるわけでなく、やりたい企画を必ずしも全部実現できるわけではないが、やりたくないのにやらねばならないからやっているという取材や企画は気づけば今年は皆無であった。意識ひとつでこんなに現実が変わるとは! もうほんと、20代のときに知りたかった。いやせめて30代でもよかった。なんて言ってみただけ。40代半ばになってしまったが、気づけただけ大万歳。
「決める」とエネルギーの流れる方向が定まるので自然と流れが生まれて物事がスピーディーに展開するようになる。さて、自分の使命を「決めた」私にどんな流れがくるか。それがいまはとても楽しみ。なんの流れもこなかったとしても、楽しみと思い続けられている自分がいたらそれでいいとも言える。