すべてのものが自分を表している

だいぶ前に、革靴を偏愛する人をインタビューした。彼はついつい癖で人と会うときにどうしても靴を見るそうである。カリフォルニアでは革靴にこだわりのある人がそういないから、会議などで稀に「この人はきっと同じ嗜好だ」と思える靴を履いている人と出会うと、ものすごくテンションが上がるし、そういうときはたいてい向こうも同じ気持ちで、会議の後にプライベートの会話が弾むというようなことを言っていた。

同じことはサーフィンにも言える。わたしは相方の影響もあって、好きなサーフィンというのがかなり確固としてある。そして、わたしの好きなサーフィンをする人はどういう道具(この場合、特にサーフボードとフィン)を選ぶかがわかっているので、海辺でそういう道具を持っている人を見かけるとときめく。だいたい向こうも同じで、駐車場でつい話し込むということもしょっちゅう起こる。

だけど、これ、別に革靴やサーフボードに限らないんである。どういう服を着ているか、どういう物を持っているか、どういう髪型をしているか、すべてが自分を表しているはずなのだ。だけど、趣味以外のエリアでは、「こういう場ではこういう服装がふさわしい」とか、「もう年齢が年齢だから落ち着いた髪型がいい」とか、自分で選んでいるのだけどその基準はじつは他人の目線というようなことが発生しやすい。いや、他人の目線を気にしているわけじゃないよ、人として他人に迷惑をかけたくないだけ、っていう人もいるかもしれないけど、その思考もトリッキーなので要注意だ。人に迷惑をかけたくないと思っても生きている限り迷惑をかけるときはかけるし、人に迷惑をかけたくなくてやったことで結局迷惑をかけることもある。だから、多くの場合、「人に迷惑をかけたくない」は言い訳だと思ったほうがいい。

で、またも、話は、身の回りの細かい、本当に細かいものたちについて、「自分にとって心地いい」を基準にひとつひとつ選び直すことの大切さに行き着く。「こう場ではこういう服装がふさわしい」と思われるものとまったく違う服装が自分の好みだとして、ではその自分好みの、その場にそぐわない服装で出かけても心地よいと思えるか? さすがに心地よくはないんじゃないか? だからといって、その場ではこういう服装がふさわしいからという理由で自分のまったく好みでない服装でいっても心地よいとは思えないよね? そうやって両極を行き来していると、両方の間を取ってこのへんかな、というような、自分にとってちょうど心地よい地点が見えてくる(その地点は毎回違う)から、それをやればいい。そういうのを、ひとつひとつ丁寧にやっていくと、持ち物や着ている服やいろんなことに自分らしさが滲み出てくるんだってことまでは意識していたけれど、その結果、そうやって表に現れた自分らしさに反応する人=同士が集まってくるんだってことが、革靴とサーフィンの例でクリアになった。

カリフォルニアにおける革靴も、わたしの好きなサーフィンのスタイルも、どちらもメインストリームではないから、同士を見つけたときのよろこびがひとしおなんだと思う。でも、自分と似ている、仲良くなれそうな人っていうのも、世の中にはそんなにたくさんはいないはず。自分の心地よいを追求せずに、「ま、こんなもんだろ」で選んでいきることは、ただでさえ少ない同士と出会うチャンスを自分で逃しているようなものといえるかもしれない。この肉体を持っているいまの人生は有限と考えたら、そんなもったいない時間の使い方はないな。

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