自分を信じられるようになるということ

冬だからか、それとも命日反応か、あるいは、特集2本抱えているという精神的プレッシャーからか。先週は、せっかく他州からお友達が遊びにきてくれていたというのに、自分のテンションは最高潮ではなかった。別に暗く落ち込んでいたわけではなく、普通に暮らせていたけれども、ここのところ「ひゃっほーい!」というくらい元気満々なことが続いていたので、笑っていても人としゃべっていても心の奥にシンとした寂しさがあるこの感覚は久しぶりであった。
なんだろうなぁ。たぶん、自分の中の声で、聞いていない物事があるんだろうなぁ。そんなことをぼんやり思うが、どうにも打破できない。ああ、これが噂に聞く更年期のうつっぽさかしら。じゃあ、まあ、しょうがないか。そんなやりとりを自分の中でしているうち、昨日になって急に活力が戻ってきた。アメリカにいるおかげもあって季節の変化にはだいぶうとくなってしまったが、そういえばその日は立春であった。春とともに元気になる、その自分の動物ぶりに自分で笑ってしまった。
「経験」が多いことは、何か新しいことを始めるときに、足かせになることがある。「経験」以上の物事に対して心を開けない、あるいは無意識に恐怖を感じてこれまでの自分以上には成長できない、というふうに。一方で、「経験」は、やっぱり武器でもあるとわたしは思う。たとえば40年生きていると、どうにも元気が出ないときと、超調子のいいときと、そういうサイクルが交互にやってくると「経験」として知っているから、どうにも元気が出ないときも、それはうれしくはないけれど、そこまで深みにはまることもない。ただ、出口はどこだろう、いつ出れるんだろう、と思うだけで、出れないことはないと「経験」があるから信じられる。
強く信じたら願いは叶うとわたしは思っているけれど、やっぱり人は経験として体感したことでないと強く信じられないという気もする。少なくともわたしはその傾向がある。経験したこともないのに信じるのはちょっと空々しく、空元気ならぬ空信じという気がする。だから、わたしの場合、何かを信じられるようになるために、少しずつ経験を重ねている、そんな気がする。
「何か」というのは、結局、「自分」かもしれない。自分をもっと信じられるように、わたしは今日も経験を重ねる。そう考えると、わたしが自分を信じて、好きになるのに、40年以上かかったのは、まあ自然かもしれない。そのくらいの経験が、必要だったのだ、自分を信じられようになるのに。
