「やりたい」にはダミーもある

心と呼んでいいのか、無意識とか潜在意識と言うべきか、なんの話か定義は難しいので端折るけれども、自分が「やりたい」と思っていることが、じつは巧妙に本音を隠すためのダミーであるということが、けっこうある。
そのことは知っていたけれど、まさか、自分の「やりたいことA」がダミーであったらしいということには気づいていなかった。いや、Aがやりたいことであることには変わらない。だけど、もっともっと深く覗き込むと、本当はBをやりたいのに、Bをやれない(と自分で決め付けている)ために、できそうなAを矢面にしていただけだった。なんということだ。
もっというと、Aは人に対して「やりたい」と宣言するのに抵抗がないことなのだ。で、Bはそれをやりたいと人にいうのには抵抗があること。Aは世のため人のためにやりたいのだっていう大義名分があるし、なんというか、努力すればできないことはないと思える願望。だけど、Bはそれが誰かのためになるってなかなか言えないし、才能とかセンスとか運とかによるところも大きそうで、努力すればなんとかなると思えない。だから、人に言いにくい。
そういういろんなことが混ざり合って、いつのまにかBというやりたいことはわたしの心奥深くに押し込まれ、かわりにAが出てきていただけであった。
これに気づけたことは、「ずっとやりたかったことを、やりなさい」のワークが進んでいるっていうことの証かもしれない。今のわたしは、「誰のためとかは、ひとまず置いといていいじゃん。何にならなくても、自分がやりたいならやればいいじゃん」って思えるから、取り組める。だけど、やりたいことだったと思い出せていなければやらないままであった。まずは何が本当にやりたいのか、そこを思い出すことが大事であるなぁ。
って、やりたいってことさえ忘れていたんなら、そのまま忘れていてもしあわせだったんじゃない? そういう考え方もあると思うけど、わたしはこの人生を可能な限りマックス拡大して生きたいので、気がつけてよかった派。それが何になってもならなくても、やりたいならやってあげよう。自分のために。と、久しぶりにめらめら。
ここのところ、ちょっとテンション低かったのは、その、心の奥に隠していた自分が出てこようとしていたからかもしれないな、とも思ったりする。青虫がサナギになって蝶になるとき、サナギの中では「変態」といって青虫は一度どろどろに溶けて形をなくすのだと聞いたことがある(間違っていたら誰か訂正プリーズ)。わたしはこの話がすごく好きで、「これまでの自分」が揺らいで崩れていくように感じるときは、新しい自分が出てくるときなんだって思うようにしている。最近始めた新プロジェクトは折しもやりたいことBにつなげられる。神さま(というのはわたしの定義する神さまだけど)の采配はいつだってパーフェクトなのだ。
