短編『黒猫のミケ』

手のひらにのるサイズの小さな猫をもらった。捨てられていたところを保護された黒い猫だ。
まだまだ子猫でこれから大きくなるよ、と保護した人は言った。その人のところにはすでに12匹の猫がいる。「黒猫は不吉っていうか縁起悪そうっていうかで人気がなくて捨てられる猫のナンバーワンなんだよね」とその人はつぶやいていた。
わたしはその猫にミケ、と名付けた。三毛猫ではなく黒猫にミケと名付けるのは犬にネコと名付けるようなものだが、何度その黒猫の顔を見ても、「ミケ」という音が一番しっくりくる気がしたのだ。
ミケはぐんぐん大きく…ならなかった。
1カ月経って梅雨が明けてもミケはもらわれてきたと同じ、手のひらサイズのままだった。保護した人に電話をすると、「へぇ?」と驚かれた。
「何かの病気かな? 状態はどう? 元気そう?」
「はい。ごはんはミルクや子猫用のキャットフードをやっていますが、残さず食べます。おとなしく寝ていることは多いですが、家を歩き回ったりはするし、そんなに病気っぽさは感じません」
「ならよかった。避妊手術はするでしょう? そのついでに獣医さんに見てもらうといいのでは?」
保護した人にそう言われて、「はい」と電話を切った。が、切ってから考えてしまった。こんな小さな猫に避妊手術はいるのか? 獣医さんはこんな小さな猫の避妊手術をしてくれるのか?
思案した結果、わたしはミケを動物病院には連れて行かないことを決めた。もっというと、ミケのことを誰かに話すのはやめようと決めた。いろいろ詮索されるのはいやだ。
そもそも一人暮らしで、仕事はウェブデザイナーで、ほとんどを家で過ごしているので、わたしさえ黙っていれば誰からも何も言われることはない。猫ならアパートの大家にばれずに飼えると思って手を出したわけだが、小さな猫ならそれこそまずばれないだろうから、むしろ都合がよかった。
***
仕事をするときは、机の上にミケを置く。
おとなしい猫で、だいたいはぬいぐるみみたいにちょこんと座わるか、寝そべるかしている。時々、伸びをして数歩歩いてこっちを見たりする。ミャァというよりはミィというふうにか細い声で鳴く。
ある日、スーパーに買い物に行ったら、緑色の小さな虫かごが売られていたので買ってきた。
それにミケを入れて、カバンにそっとしのばせて、散歩に行くようになった。
近所の公園まで歩いたら、木陰のベンチに座ってミケのかごを出し、人から見えないようにかごにショールをかける。
かごの扉をあけてもミケは外には出てこない。ただ顔だけ出して、ミルクをせがむ。お弁当に使う醤油入れを使ってミルクを飲ませる。
飲み終えるとミィと小さく鳴いて、またかごの中に顔を引っ込める。
わたしと同じで、外というものがそんなに好きではないらしい。
***
あるとき、本当に久しぶりに打ち合わせのために家を開けたら、戻ってきたときにいつものようにミケが出迎えてくれなかった。
家でミケの定位置であるベッドの上にも姿はない。
わたしは半狂乱になった。
打ち合わせだけなら2、3時間で戻ってこられるところを、取引先の担当の男に「この後、ちょっとお茶でもどうですか」などと誘われて、結局6時間も留守にしたからだ。男に声をかけられたとうつつをぬかしていたからこんなことになったに違いない。
クローゼットの中やキッチンの戸棚、机の引き出し、ソファーの下…思いつく限りの場所を「ミケ!」と声を出しながら探したがやはり姿がない。1Kの小さな部屋で、ほかにどこに隠れることができるのか。
探しているうちにどんどん悲しくなり、涙が出て、涙はやがて嗚咽になった。
だいたい、わたしは、いつも、大切なものをなくすんだ。
泣き疲れて眠ってしまって、朝がきたら、ミケはまるで何事もなかったかのようにふとんの上にいた。
「ミケ!」
わたしが声をかけると、ミィ、と鳴いて、こっちを見た。
それからは、打ち合わせのときも、虫かごにミケを入れてかばんに忍ばせていくことにした。
***
ウェブデザインの仕事を請け負っている健康食品店の担当の男とちょくちょく会うようになって半年が経った。
今日もミケはかばんの中、虫かごの中にいる。
「あなたはいっつも大きいかばんを持っているよね。そして、大切そうに持っている」
男は言いながら空になった自分のグラスにビールを注ぎ、半分ビールが残っていたわたしのグラスにもビールを継ぎ足した。
若い大学生が好みそうな安っぽい居酒屋。
「僕は時々、嫉妬するんですよ、そのかばんに」
男はちょっと気の利いたことを言ったような表情でニヤリと笑った。
「トイレに行ってもいいでしょうか」
「ああ、また、そうやってはぐらかす〜」
「いや、ちょっと、本当に、トイレ」
言いながらわたしはかばんを抱きかかえて立ち上がり、居酒屋が用意していたトイレ用のサンダルをつっかけてトイレへと急いだ。
男女共同のトイレには誰か先客がいた。
少し待ってみたが、なかなか出てこない。
わたしは、トートバックを広げて、ミケの虫かごを上から覗き見た。
ミケは珍しく激しく虫かごに爪を立てていた。
もしかして、かばんに入れている間ずっと、ミケはこうしていたのだろうか? わたしがあの男のくだらない話を聞いている間ずっと?
ああ、気づかなくてごめん。
わたしは踵を返して、歩き始めた。
座敷席でわたしの帰りを待っている男と目があったが、そのまま通り過ぎた。
男が戸惑ったような怪訝な顔をしているだろうことが手に取るようにわかる。
「XXXさん? XXXさん?」
男がわたしの名前を呼んだがそのまま店を出た。
きんと冷たい空気が、紅潮した頬を冷やす。
背後に男が追ってくる気配を感じて、わたしはサンダルを脱いで走り出した。
「XXXさん!?」
店のドアを開けて外に出てきた男が大声で叫ぶ。
「金、どうするんだよ!払ってけよ!」
わたしはおかしくなって笑い出した。この後におよんで金かよ。
道行く人がぎょっとした顔でこっちを見る。
ミィ。
ミケの声がわたしには聞こえる。この子はよろこんでいる、ということが、わたしにはわかる。
男は叫んだだけで、追いかけてはこなかった。
吐く息が白い。
足を止めて通りかかりのタクシーを拾った。
乗る前にバッグの口を広げてミケの様子を確認する。
ミケは小さく丸まって寝ていた。
「さて、どこまででしょう?」
運転手が言い、アパートの住所をわたしは告げた。
そして、心に決めた。
家を買おう。