答えが出ないことを楽しむ

瞑想の特集を担当した。
わたし自身は、昨年からパラマハンサ・ヨガナンダの設立したSelf Realization Fellowshipの生徒となって、毎朝晩の瞑想が日課になって、瞑想を習慣化することによる自分の変化を実感している。ただ、みんながみんな瞑想に興味があるわけではないと思うので、特集では、「なんだか瞑想はいろんなことにいいと噂には聞いているけど、自ら積極的に調べたことはないし、やろうとも思っていない」くらいの人を想定して、「マインドフルネス」をメインに作った。
まだ印刷にはまわっていないけれど、自分が担当して作った特集の中でも上位にくる満足度のものに仕上がることは確実である。これ、かなり、うれしい。このほかにもうひとつの特集を同時期に担当していたので頭の中が忙しくて相当にヘビーであったが、でも2つのうちひとつが瞑想という、自分の大好きなジャンルだったことは楽しくもあり、ありがたかった。取材に協力してくださった皆さんに感謝、です。
特集の中で、禅僧に坐禅についてもうかがった。
Zoomで取材させてもらったのだが、わたしの質問に対する先生(とあえていう)の回答がまさに禅というか、まるで禅問答をふっかけられたみたいなやりとりになって、非常に印象深かった。
何を禅問答っぽく感じたかというと、質問にたいして、端的な回答はくれないのである。悪くいえば、まるではぐらかされたかのように感じる。はぐらかされたようで要領を得ないように感じるんだけど、でも、「ん?どういうこと?」と考えさせられる。なんといえばいいのか、「こういう答えがくるだろう」と予想して凝り固まっている脳みそに、溶解剤を放り投げられてどろんどろんに溶かされた、みたいな体験。自分ではそんなつもりはなかったけれど「こういう答えがほしい」とやっぱりどこかで固まっていたんだなってことにも結果として気付かされた。
先生がおっしゃっていたことで、特に自分の心に残ったことが2つあるので記録しておく。
ひとつは、何かをするのに人は目的や意義を求めがちだが、生きる意味も死ぬ意味もよくわからなくてもみんな生きている、そのことが真理である、ということ。
もうひとつもそれと似ているが、現代においてはどうもわかりやすくすぐに回答が出るものばかり好まれるが、わかりにくく、すぐには回答が出ないものの良さ、面白さもある、ということ。
なんかね。自分が好きで、かつ自分の仕事としてやりたいのは、それだなと思ったんです。「皆さん、幸せに健康に生きるにはAがいいですよ!さあ、Aをしましょう!」というのではなくて、「幸せに健康に生きるには、AからZまでいろんな方法があります。で、あなたはどれを選びたいですか? でも、そもそも幸せに健康に生きるってなんでしょう? それ、本当にほしいですか?」みたいな感じ。
それって、Aというひとつだけを自信持って勧めるような専門知識をわたしは持っていないからってだけでもあるし、Aを勧める人を否定するものではないです。Aを必要としている人は絶対いるので(必要とされないものは存在しないと思ってます)。ただ、わたしは何が幸せで健康かって人それぞれだよねって思ってしまうし、そもそも幸せも健康も求めない人生だってそれはありだよねっていう気持ちもいつも心のどこかにある。
一言にするなら、「その人の、自分自身を生きれば、それがいい」ってことになってしまう。
「じゃあ、自分自身を生きるには何をどうすればいいの?」って言われても、それは自分で見つけてくださいっていう話で。
本当に差し出がましいのだけど、そう考えている自分の考え方が、先生との禅問答と似ているような気が、ちょっとしたのだ。
それで、自分がやりたいのは、その人が自分自身を見つけられるように、凝り固まった脳みそを一度溶解する、その溶解剤みたいなことなんだなぁと気づいた次第。いや、禅の先生と一緒にするっていうのは相当おこがましいことは承知していますけども。
で、その溶解剤みたいなことってどんなことだろう? 何ができるんだろう? とわたしは考え始めてしまうのだが、そこでまた先生の言葉が出てくる。「すぐに出る答えを求めない」。
ああ。もしわたしがSelf Realization Fellowshipでヨガナンダさまをグルにすると決める前であったら、先生のところに弟子入りしたかった。
ちょっとだけそう思ったんだけど、SRFは西洋(特にアメリカ)の人にヨガの教えを広めるために作られたもので、現代の西洋人が受け入れやすい、取り入れやすいようにアレンジされているんですよ。だから、きっと軟弱で易きに流れやすいわたしでもやれているというだけで、禅の修行となったらあっというまに逃げ出しそう(苦笑)。
ここまで書いておいてこの文章には結末も教訓もないんだけど、それも「すぐに出る答えを求めない」ってことで、よしとする。
それにしても、神さま(的な何か)はすごいなっていつも思うのは、人との出会いだったり、本の言葉だったり、自分に必要なものをこうしていろんな形で届けてくれることだ。でも、それに気づくことができないこともあるから、気づいた自分、えらい、と自分を褒めることも忘れず。
