人の目を気にしてもいい

人の目は気にせず、自分らしく、自分軸で。ここ数年、少なくともわたしが目にする範囲ではこの考え方が主流で、わたしも大いに賛成だし、かつて生きづらかった自分自身がいますっかり生きやすくなったのは「他人軸」だった生き方から「自分軸」を取り戻せたからだとも思っている。
しかし、ここへきて改めて思うのは、「自分軸」っていうのは人の目を気にしないってこととはちょっと違うってこと。言いかえると、他人の目を気にしても全然いいってことだ。
「周りの人にこういうふうに見られたい」と思う、その発端が、「(なぜなら)自分はそう見られないと価値がないから」という自己否定であると、それは確かに苦しいだろうから他人の目は気にしないでやったほうがいい。けれど、じゃあ「周りの人にこういうふうに見られたい」という思いを抱くことが悪いかといったらそんなことはない。その思いの根底にあるのが自己否定でなければ、「こういう人に見られたい」は「こうなりたい」というふうに矢印が自分に向かう。その場合、「こういうふうに見られたい」は自分を変化させ、成長させていくきっかけになる。
では、自己否定がないってどういうことか? 簡単に言えばいまの自分へのジャッジがないという状態とも言えると思う。「こういう人に見られたい」というのが、「いまのわたしではダメだから」につながると、それは自己否定。この状態ではがんばればがんばるほど苦しい。しかし、「こういう人に見られたい」が、「そんなわたしになったら楽しいから」だと自己否定がない。この場合、何かをがんばるということは同じなのに、とんでもなく楽しくなる。
長々と書いたけれど、言いたいのは、問題というか、重要なのは「他人の目を気にしない」ということよりも、もっと根っこのほう。一言でいっちゃえばどれだけ自己を肯定できているか、ということのほうだ、ということ。
「人の目を気にしない」という言葉に引っ張られると、誰かの何かを見て「あの人のようになりたい!」と感じることさえ否定してしまう可能性がある。「人のことがよく見えるなんて、わたし、現状を受け入れてないんだわ。ダメだよ、自分を受け入れて愛さなきゃ」みたいな状態。でも、それはもったいないと思うのだ。だって、それって変わるチャンスでもあるから。生き物にとって変化は進化であるはずだから。そのような成長の機会を自分で押し込めていると、それはそれでまた苦しくなると思う。
とにかく、苦しいときは、何かが違うっていうサインである。そういうサインを受け取ると、人は自分ががんばっていること、つまり「行動」が違うんじゃないかとやっていることを変えようとしがちだけど、たいていの場合、変えたほうがいいのはその奥にある「考え方」のほうだ。やっていることは同じでも、その始まりが自己否定か自己肯定かで苦しいか楽しいかが違うから。
これに限らず、言葉の形にとらわれて、その言葉が意味するところの本質が置き去りにされて、形ばっかりになっちゃっていることって結構ある気がする。
じゃあ、わたしのように自己肯定感が低く育ってしまった大人はどうしたらいいかというと、一瞬一瞬、本当にばかみたいに細かく自分の「心地よい」を選択することを続けること。これ、簡単だけど、本当に行動できている人が少ないんですよ。行動とはこの場合、「心地よい」を選択することと、選択したことのためにちゃんと動くこと。行動しないと変化は起きない。というのも、行動することで、脳の新しいネットワークが強くなっていって自分から出てくる考え方が自然と変わるのだ、ということは動作学という理論を知ってよくわかった。そして、実践したら、ほんとーーーーに変わった。
半信半疑でもとにかく行動するとびっくりするくらい変わります。それだけのことでそんなにも変われるってことに少しでも希望を感じてもらえるなら、ぜひ実践してほしいと思って、しつこく書いている。
40も後半になってようやく生きやすくなったわたしは、かつてのわたしのような若い女の子たちに、もっと早いうちに生きやすく生きて人生楽しんでおくれって言いたくて仕方ないおせっかいおばちゃんと化しているのです。
