しあわせは時空を超えて

亡くなった前夫と一緒に暮らし始めたのは2010年の2月の終わりだった。それまでもいろいろあってくっついたり離れたりの腐れ縁だったけれど、2010年の2月に彼の家に住み始めたときは、一生を共にするのだという覚悟の上だった。

当時、わたしはフリーランスのコピーライターで、「うちで暮らすならうちにちゃんとした仕事用のデスクが必要だね」ということになって買い物に出たのは春がくる前のことだったと思う。新しい暮らしが始まるんだとわくわくして出かけたのに港北のIKEAに着いたらわたしの胸はざわざわしはじめてしまった。机を買ってしまったらもう後戻りできない、と思った。彼と一緒に生きることに対して覚悟はできていたつもりだったけれど、やっぱりどうしても親が気になった。

前夫はバツイチで前妻のと間に子どもがおり、その数年前にはがんの摘出手術を受けていた(再発もしていたのだが、そのことは親には告げなかった)。まだ彼と会ったことがなかったわたしの父母はその条件だけで夫と一緒に暮らすということによい顔をしてくれなかった。だから、わたしにとって彼と暮らすことを選ぶことは、(当時は)父母との決別を意味した。心の中では決別を辞さないつもりで彼の家に住み始めたのに、IKEAでいざ机を目の前にしたときに、決別の重みが現実的に感じられて、わたしの心は沈んだ。

わたしが浮かない顔をしていることに前夫はすぐに気づいた。じつは数年前に彼が手術をするとき、わたしはこの先、彼と一緒に生きると決めて親族として彼に付き添うことまでしたのにその後に逃げ出した、という経緯があった。「一緒に生きていくと期待させられてまた逃げられるのはこりごり」というようなことを前夫に言われた。結局、机は買ったのだけど、そのときに買ったのか、決意が固まるまで待ってまたIKEAに行ったのか、いまいち思い出せない。後者だったような気がするのだけど。

***

似たような気持ちに、そういえば、2019年の6月になったなぁということを今日ふと思い出した。ユパ(当時の仮の名前はサニー)という、保護犬のテリア雑種の子犬を引き取りにいった日のことだ。

それまで16年飼っていた犬を亡くした相方と、亡夫が飼っていた犬を義父に任せて渡米したわたしは、互いに犬好きだったので、いつかは犬を飼うのもいいね、という話は時々していた。でも、それは、具体的な日付のない「いつか」で、わたしは、日本に残してきた犬が健在な限りは、新しい犬を飼うという気持ちになれないのが正直なところであった。相方がときおり保護施設のウェブサイトをチェックして、「こんな子がいるよ」と見せてくれたりしたけれど、「ああ、かわいいね」というくらいで、実際に自分たちの犬を見つけるのはずっと先のことと思っていた。相方と出会って、この先を共に過ごせる人だなと思っていたけれど、彼と一緒になることを選ぶことは亡夫との縁を切ることと繋がってしまう気がして、もっと時間がほしかった。

ところが、2019年の6月のある日、会社から家に帰ったら、後から帰ってきた相方に急に「今から犬を見にいく」と言われた。そういえば、確かに数日前に「この子なんかどう?」と見せてもらった子犬の写真があった。わたしは例のごとく「あー、かわいい」と言っただけだったが、その後、相方はその人と話を進めていたのだ。

「見に行くだけだから、会ってぴんとこなかったら断ればいいから」と相方は言った。車に乗って30分。犬を保護しているという人との待ち合わせ場所に行ったのだけど、互いに土地勘のない場所での待ち合わせなのでなかなか落ち合えなかった。だんだん日が傾き始めて、「これは縁がなかったということかな」と思い始めた頃に、ようやく小さな、うさぎみたいな犬を連れて歩いている女の人を認めた。

車を出て近寄ると犬はわたしの臭いを嗅ぎにやって来て、いきなりごろりんと寝転がって腹を出した。その瞬間に、うちの子になることが決まった。

帰りは助手席のわたしがその子を抱いて帰った。小さくて温かくて軽いようでちょっと重い。わたしは相方とはこの先、ずっと一緒にいるつもりで付き合い始めたし、アメリカにもずっといるつもりでいたけれど、あの日、あのとき、膝の上に感じた子犬の重さがわたしの決意を促した。犬を飼ったということは、もう引き返せないぞ、と。もちろん、犬と離れてよければ相方と別れることもできるし、引き返せないというのは事実ではないのだけど、でも、犬を飼うことは、この先、相方とアメリカで暮らすのだということをわかりやすく象徴する出来事だったのだと思う。

大げさだけど、あの日、ああ、これまでと違う人生が、はじまるんだ、本当に、と思ったのだ。

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その後、デイジーという2歳のラブラドール雑種の保護犬もうちの子になり、犬なしで暮らしていた日々があったことなど思い出せないくらい、犬との暮らしが日常になった。

じつはいま、相方と犬たちと散歩をしてしあわせを感じるとき、いつも必ずといっていいほど亡夫と亡夫と飼っていた愛犬オセロと散歩をしてしあわせを感じていたことを思い出す。ああ、このしあわせはあの公園に一緒に行ったときと同じだな、とか、川沿いを一緒に歩いたあのときと似ているなとか。

この間、わたしと同じように若い頃に死別をしてその後に再婚している人とお話をしたのだが、その人は「2つのレールを走っている気がする」と言っていた。表現は違うけれど、すごくわかる。わたしは時空を超えたパラレルワールドを生きている気がする。いまの暮らしとあの頃の暮らしを比べているつもりはないし、相方と亡夫を比べることもしていないつもりだけど、相方と犬と散歩してわたしが笑っているとき、時空を超えて亡夫とオセロと散歩しているわたしも笑っている、みたいな気持ちによくなるのだ。

前夫は亡くなり、オセロももうこの世にいない。わたしは日本におらず、全然違う土地で、全然違う人と犬と暮らしている。けれど、しあわせの中身はすごく似ている。登場人物も舞台も違うんだけど、じつは同じなんじゃないかと思うくらい似ている。そのことをただ不思議に思う。

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