家族の言葉

小学校の頃、クラスで控えめながら人気があった男子、Kくんが、「うちでは戸棚のことを『パタン』と呼ぶ」と言っていた。扉を開け閉めするときの擬音語がKくんの家族の中で戸棚を意味する固有名詞になっていたということなのだが、お父さんは確か大学の教授で、年齢のわりに大人びてみえたKくんが、家では戸棚のことを「パタン」と言っているのだと想像するとおもしろくて、いまも忘れないくらい印象に残っている。

こういう、家族だけがわかる言葉、というのに、なぜかわたしはぐっとくる。

亡くなった前夫との間にも、家族の言葉はたくさんあった気がするのだが、そういったドラマ性のない日常の記憶は思い出したいときに都合よく思い出せるほどには覚えていなかったりするから残念だ。

ここで書きたい家族の言葉とはちょっと違うけれど、強いていえば、ひとつ覚えているのは、「味噌ダレ」。

二人でしこたま飲んで酔っ払って、会計の段になって、奢るといって譲らない亡夫に対して、わたしの口から出てきたのが「じゃあ、わたし、味噌ダレのぶんは払う」だった。

だいぶ酔っていたけれど、言った瞬間に、変なことを言ったぞ、と自分でわかった。そして、数秒の間があいて、二人で爆笑した。味噌ダレって。

その後、「味噌ダレ」というのはしばらく我々のキーワードになった。こういう意味不明の言葉こそパスワードに最適だと、会社のパソコンのパスワードをmisodareにしたりもした。

そんなときに限ってパソコンにトラブルが発生して、IT部のお世話になるはめになり、「修理するのでパスワード教えてください」などと言われ、「みそだれ、です」と白状しなきゃいけない羽目になった。IT部の人が笑ってくれたらよかったのに、「はい」って普通に返事されたもんだからとても恥ずかしかったことも、いま思い出した。

***

再婚して、いまの相方と暮らし始めて、二人だけにわかる不思議なやりとりが増えるたびに、ああ、家族だなぁとわたしはうれしくなる。

前夫が亡くなったとき、つらかったし、いまも亡夫のことを思い出さない日はないのだけど、一方で、長い付き合いだった前夫と結婚して一緒に暮らし始めるようになってから「結婚っていいなぁ、こんなんだったら早く結婚しておけばよかったなぁ」と思うようになったわたしは(結婚は30代半ばで決して早くはなかった)、いつかまた誰かと結婚して共に生きる、家族になる、ということをしてみたいと思ってもいた。

最近、わたしの中でヒットしている家族の言葉は「眉毛、描き終わったよ」。

相方よりずっと早起きのわたしは、彼が起きる前に早朝サーフィンに行くか、サーフィンに行かない日はヨガや瞑想やウォーキングなどの日課を一通り済ませてから犬の散歩に一緒に行くために彼を起こす。ところが、彼が起きて一緒に犬の散歩に行く支度を終えたのに、わたしの眉がまだ描けていないために待たせることが多々あって、おかげで「起きて」という言葉では彼は起きてくれなくなった。それで、試しに「眉毛、描き終わったよ」と言うようにしたら起きるようになったので、我々の中では「眉毛、描き終わったよ」が、「起きて」の意味を持つようになったのだ。

思えば家族の言葉は犬にもある。たとえば「コング」という犬のオモチャを、わたしはふざけて「コンコン」と呼んでいるため、犬たちは「コング」を「コンコン」と認識している。結果、「コング」という言葉では反応しないのに「コンコン」では目を輝かせるという事態が発生している。

業界用語ならぬ家族用語。自分たちだけに通じている言葉を持つことの不思議な連帯感。

家族になるって、惚れた腫れたとはまったく別物で、若い頃はそれって色気がなくなるような感じで寂しいことだと思っていたけれど、いまのわたしは家族になることって惚れた腫れたよりずっとずっと楽しいわぁと本当に思う。かといって惚れた腫れたがないとそもそも家族を作ることができないから、人は生物学的年齢に応じてちゃんといま必要なことを楽しいと思うようにできているんでしょうね。

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