直感が当たる、当たらないは重要じゃない

直感って、基本的には当てになるものだと思っているけれど、当たったときのほうがより強く印象に残っているからそう感じるだけと言われればそんな気もする。振り返ればたいして当てにならなかった直感も結構ある。
それで最近思うのは、直感が当たる、当たらないは、たいして重要じゃないっていうか、どうでもいいってことだ。昔、本田健さんがそんなようなことをどこかで言っていらして、目から鱗だったのだけど、あれから数年経って自分も自身の血肉として、そう言えるようになってきた。
っていうのも、直感が「当たる」っていうのは、結局、自分が思い描いた範疇の中に物事がおさまるってことで、「当たらない」っていうのは、自分が思い描いた範疇に物事がおさまらなかった、というだけのことと言えるので。
より大きな視点、長いスパンでみたら、思い描いた範疇に物事がおさまることが必ずしもよいとは限らないし、思い描いた範疇にものごとがおさまらないことが必ずしも悪いとも限らない。大事なのは、ものごとに対して惰性で動くのではなく自分の感覚(直感)を感じてそれを信じて動く、ということのほうにあるんじゃないか。感じて信じて動く。そこまでが大事で、それによって起こった結果はまた別物。結果として起こった出来事を、感じて信じて動いたことと結びつけて考えなくていい。そんなふうに思うようになった。
とはいえ、「結果として起こった出来事を、感じて信じて動いた結果と結びつけなくていい」っていうのは、自分の言わんとすることを正確には言い得ていないのですが…。言いたいのは、感じて信じて動く(A)、その結果として起こった出来事(B)を、また感じて信じて動く(C)、それを繰り返すだけってこと。Bを感じて信じて動くCの段階では、Aの結果として起こったことだってそこまで気にしなくてよい。Bは確かにAの結果として起こった出来事かもしれないけれども、CではBを新しい出来事として純粋に受け取って感じて、感じたことを信じてまた動く、というイメージ。要はAをした結果のBを受けて、Cをすることになっても、最初にしたAの判断が良かったのか、悪かったのか、問う必要はないということだ。
もちろん、Bが思うような展開でなく「失敗」という結果になって、Cを考えるとき、最初のAの失敗から学ぼうとすることに意味がないとは思わない。ここで言いたいのは、そもそもその結果は本当に「失敗」なのかという、もう少し深いところでの意識の設定の違い。「失敗」と感じた結果Bも、ただ最初のAというもののアウトプットにすぎない。そのアウトプットを受けて自分がまた何を感じるのか、その感覚を信じてどう動くのか、それはCっていうまた新しいインプットになる。AとBのCのつながりはもちろんあるんだろうけど、ないとも言える(禅問答みたいだ)。とにかく、なぜダメだったかに固執せずに、「さあ次次」ってもっと軽やかに動いていっていいのだと、最近すごく思うようになった。
Live in momentってこういうことなのかなってちょっとだけ手触り?肌触り?を感じているような。違うかもしれないけど、そんなふうな意識で生きられるようになって、ハイパーセンシティブ傾向があって人並み外れて低かったわたしのストレス耐性はいま人並みくらいにはなった。こうなったいま振り返ると、昔はなんでいつもあんなに疲れていたんだかよくわかる。
これまたしつこく書いているけれど、性格だ、先天的な特徴だ、と思っていることの多くは変えられるっていうのが40代になったいまのわたしの実感です。もちろん、変えたいと思えば、の話ですけど。
