自分の「ものさし」を整理した

一般的に考えたらあまり歓迎したい出来事ではないはずなのに、ほんの少しうれしさが伴う(ように見える)、ということは、ままある。
すぐに思い浮かぶのは「あ、ごめん、ちょっと、一本電話してくる。妻がうるさいんで…」なんて断りを入れて飲み会でいったん席を外す男性。いかにも面倒臭そうなそぶりなんだけど、どこかに「妻に心配されている俺」といううれしさがあるように、わたしには見える(もちろん、そう見えない場合もある)。
身近なところでは、筋肉痛もそれに近い。なんでかわからないが、大人は筋肉痛になったりすると「イテテ」と言いながらも楽しそうだったりする。特に年齢が高くなるほどその傾向が高まる気がする。そこには、体を使った、いや、使えた、ということに対する勲章みたいな気持ちが少なからずあるんじゃないか。
わたし個人で言えば、ボディメークをしたくてワークアウトに励んでいるので、狙ったエリアに筋肉痛が出ると、うれしくてしかたない。己の筋肉痛など言わなければ誰にもわからないのに、いちいち「あ、イタタ。ちょっと筋肉痛で」なんて声にして夫に伝えたりもしている。筋肉痛の報告をしたいというよりは、それを通して、ワークアウトをがんばっているんだってことを伝えたいのだろう。自分のことなのに他人事のようだけど。
まとめると、「一般的に考えたらまず歓迎したい出来事ではないはずなのに、ほんの少しうれしさが伴う」というのは、表面に起こっている出来事そのものはうれしくないのだけど、その出来事を引き起こす要因、理由のようなものに誇らしい気持ちがあるとき、と言えるかもしれない。
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じつはそのようなことがまた最近、自分の身に起こった。
「サーファーズイヤー」の疑い。
サーファーズイヤーというのは、サーフィンに限らず、冷たい水に入ることが多い人に出やすいもので、簡単にいえば外耳道の骨が増殖する、というもの。
軽症で症状がないうちはいいが、自然に治るということはないから、なってしまったらこれ以上は悪化させないことが必要と言われる。症状が強くなると耳が聞こえにくくなったりして手術が必要になるので、まったくよろこばしい出来事ではない。
けれど、わたしは、なんだかちょっとだけ誇らしさがある自分に気づいている。
寒い冬も、早朝も、ほぼ毎日サーフィンし続けてきたことの証、みたいな誇らしさである。
わたしはサーフィンを本格的に始めたのが30代の半ばと、けっして早くはなかったので、なんだかようやくサーファーの仲間入りできたみたいな気持ちもあるのかもしれない。
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もちろん、サーファーズイヤーをひどくはしたくないので、予防するのに一番効果的な方法とされている耳栓を、先日から、するようになった。
耳栓は、年上のサーファーがしているのをよく見かけるが、わたしに近しいサーファーたちからは「音が聞こえづらくなる」として好まれない。サーフィンをしている最中の波の音や風の音、そういった自然の音もサーフィンの楽しさのひとつ、というのは確かにその通り。そこには同意するけれど、サーファーズイヤーがひどくなるのもいやなので、まあとにかく試してみることにしたのだ。
試してびっくり。耳栓をして入る海は、わたしには意外にもとてもよかった。耳栓をしたことで聴覚の情報が少し減ったことで、むしろ感覚が研ぎ澄まされたように感じた。自分と波にめちゃくちゃ集中できた。
これからは、これみよがしに耳栓をつけ、そのたびに、「いや、サーファーズイヤーだからさ」などとちょっと誇らしげに言うと思う。けど、その誇らしさが通じるのって、「サーファーズイヤーは冷たい水に入り続けたらなるもの」ということを知っている人だし、もっと言えば、「冷たい水なのにサーフィンしているのはすごい」と思っている人でなければならない。人にアピールしているつもりでも、結局、伝わるのは自分と同じものさしを持っている人だけ。その人が同じものさしを持っているとわかるだけ、である。
見方を変えると、自分がそういうものさしを持っていたことがわかった、だけとも言える。
そうか。冬も、朝も、コンディションにかかわらず海に入るサーファーがすごいというものさしをわたしは持っていたのか。
ものさしがいったんわかると、断捨離もしやすい。このものさし、いる? わたしをしあわせにしている?
うーん、いらないかなぁ。断捨離の対象かなぁ。
というわけで、これを書き終えたいま、わたしはもうこれみよがしに耳栓をつけて「いやー、サーファーズイヤーでねー」とは言わないだろう心境に変化した。文字にして書き出すということは、これだから面白い。まさかここに着地するとは思わなかったよ。
