努力って言葉は好きじゃないけど、結果的に努力してきた気がする

わたしが自分のサーフボードを買って、日常的にサーフィンをするようになったのは、ちょうど 11年前、2010年の7月の終わりでした。

当時のSurf Buddyは、2012年2月に亡くなってしまった前夫。彼は湘南で育った湘南っ子で、家はビーチから徒歩数分。そういう意味では「ローカル」でしたが、彼がサーフィンを始めたのは大人になってからということもあり、我々は地元のいわゆるサーフコミュニティーには属しておらず、わたしはサーフィンでつながっているコミュニティーというものに、そこはかとない憧れを抱いておりました。

そんなわたしにも、ただ湘南でサーフィンをしているというだけで、その頃持っていたTwitterのアカウントをフォローしてくれたローカルサーファーが何人かいました。彼らのツイートは「今日は海で打ち合わせ」とか、「波がいいから今日は休み取った」なんてことがしょっちゅうで、「ああ、かっこいい!羨ましい!わたしもそんな生活をしたい!」と悶えたものでした。

あれから11年の歳月が経ち、今日、わたしは、新しい仕事の打ち合わせについて、Hさんと、「じゃあ、また海でサーフィンしてその後に打ち合わせしましょう」というやりとりをしました。

Hさんとは、その前にもなんどかサーフィンをしてその後打ち合わせをする、ということをしています。でも、本日が満月だからか、わたしは急に気がついたのです。海で待ち合わせて波乗りをしてその後に打ち合わせなんて、あれま、11年前に憧れていた生活、わたし、しているじゃん、いま、と。

いやー、思ったことは叶っちゃうから、何を思うかには本当に気をつけたほうがいいですね!

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もちろん、わたしは、健康面、経済面、いろんな部分で恵まれて、だからこういう夢見た生活ができている、そのことに感謝しています。

ただ、同時に、努力もしているんですよ、ということは言いたい(誰にかしら笑?)。

たとえば、社員として勤務している会社の仕事は朝8:30が始業なので、サーフィンしたかったら夜明け前から行くわけです。夜明け前からサーフィンをするためには早く寝ないといけないので、もういよいよ夜まで仕事をしなければやばいという時以外は夜は仕事をしません。夜も仕事をしなきゃいけない日が続いたら何が過剰になっているか、必ず見直します。忙しすぎて体調が悪くてサーフィンに行けないと自分にがっかりするから体調管理もちゃんとします。

どれも、たいしていばれることじゃないんですけど、サーフィンをするということの優先順位が高いから、サーフィンができない環境に自分を追い込まない、というところでは地味に努力しているんです。って、やっぱりあんまり胸張れるような努力ではない気もしますけど…ただ望むだけ望んでぼけっと生きていていまの暮らしができるようになったわけではないのです。

もちろん、みんながみんなサーフィンを優先順位の上位に置かなくてもいいんです。皆それぞれの人生ですし、人生の中でも流れがあって、いまの時期に何を優先したいかは人それぞれですし、世界には理不尽なこともあって、努力でどうにもならないこともたくさんあります。ただ、言いたいのは、自分が憧れるような生活をしている誰かも、そのような生活をするのだとどこかの段階で自分で選択して、それに向けて努力しているはずだということです。努力っていうと根性論ぽいから、別の言い方をすると、ちゃんと行動している、と言いかえてもいいかもしれません。

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わたしはキリスト教を信仰しているわけではなく、聖書の勉強もちゃんとしたことはないのですが、でも聖書の言葉は好きで(勝手な解釈をしている場合もあるので怒られるかもしれませんが…)、かの有名な「求めよ、さらば与えられん」っていう言葉が昔から大好きでした。求めれば、与えられるってすばらしい、って。ところが、その言葉には、「尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」が続くんですよね。求めているだけでは、ダメだったのかと知ったのは、前夫を亡くした翌年2013年で、そのことが、残りの人生、ちゃんと求めるものを見つけて、尋ねて、門を叩こう、と決めるきっかけのひとつになりました。

その翌年に渡米して、7年。本日の海で、わたしは、ロングボード・サーフィン界のレジェンド、ジョエル・チューダーの前で激パドルしたのに波を捉えられなかったというお恥ずかしい姿をさらし、ジョエル先生に「たは!」とからかい笑いをされてしまいました。でもね、ただぼけっと「サーフコミュニティーに憧れるわ〜」とだけ夢見ていた11年前のわたしは、まさか10年後に自分がジョエル先生と同じ海に入っていて顔を覚えてもらうなんて想像もしていなかったわけです。なんかね、人生って、すばらしいって、しみじみします。

もしもいま、自分が取り組んでいることの先が見えなかったとしても、そこに小さくても喜びがあるなら、がんばって続けてみてほしい、と若い子たちに言いたくなります。行動してほしい、と。ただ、その行動に喜びがないならば、たぶん行動する方向が間違っているから、見直したほうがいいです。

行動した、その先が見えるのは10年後かもしれない、けれど、求めて、尋ねて、扉を叩けば、ちゃんと(それがいつになるのかわからないのが難点ですが)世界は答えてくれる、と、40代になって実感するようになっています。

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