死別の悲しさは乗り越えられない、ただうまく付き合えるようになるだけ

お盆が関係しているのか?この数日はとりわけ亡くなった夫のことをよく思い出します。
いや、亡夫のことはいつも毎日思い出しているので、亡夫との間での出来事で忘れていたことを思い出すことが続いた、というほうが正確かもしれません。
今回思い出したのは、よく夢で交信したなぁ、ということ。
たとえば、雷が落ちた夢。「わあ、怖かった」と雨宿りをするわたしのところに、坊主頭の男性が現れて会話をしたのですが、その日、起きた後、当時はまだ結婚していなかった彼が突如わたしのアパートにやってきました。「大変なことになった」というその彼の頭は丸坊主。まあ、これはあんまりいい思い出じゃないのでここまでにしておきますが、彼とはとにかく夢と現実がリンクするということが多かったのです。
もう一つ印象的に覚えているのは、それぞれの視点で似た夢を見ていたこと。
わたしは、彼ではない男の人と喫茶店でお茶をしていました。そしたら、喫茶店の窓の向こうの道を彼が通りかかって、こっちを見ていました。その後、彼と話したら、道を歩いていたら、喫茶店があって、そこに君がいた夢を見たと言われました。誰かと一緒だったけどその相手までは見えなかった、と。
わたしたちは長い付き合いの中で、くっついたり離れたりの腐れ縁でした。彼と別れるときは、だいたい電車や駅の夢を見て、行き先が違う電車に泣きながら乗ることになったものでした。
彼が最後の入院をしたときの新月に日にも、わたしは泣きながら彼と別々の電車に乗る夢を見て、たぶんもう別れが近いのだと、起きてからも泣けてしかたありませんでした。
最後は自宅で看取ったのですが、わたしは、生きている間に、あんなにも夢で交信できたんだから、亡くなってからもきっと交信できる、とどこかで信じていました。
でも、現実には、なかなか夢には出てきてくれませんでした。
他の友人、知人の夢に出てきたと聞くと悲しかったくらい。
最後に一緒に彼を看取った、お義父さんの夢にもなかなか出てこなかったので、「我々は最後、存分に時間を過ごしたから、向こうもしばらくはいいやって思っているんだろう」とお義父さんが言ってくれたことを慰めにしていたけれど、ある日、ついにお義父さんの夢にも出てきたと知り、それを聞いたときは泣いてしまったことも思い出しました。
夢に出てきてくれるようになったのは、亡くなって半年を過ぎたあたりかな。
夢の中の彼は、元気な姿の夢もあれば、亡くなる寸前のつらそうな姿のときもあり、また、彼は本当は亡くなっておらずまだ闘病しているのに、わたしはすっかり忘れて自分の人生を楽しんでいて慌てる、という嫌な夢も何度も見ました。
でも、ここ最近は、夢で会えない。
久しぶりに会いたいな。会って何を話したいわけじゃないけど。ガハハって大笑いしている姿を見たいし、声を聞きたい。
お盆や彼の誕生日、命日近くなど、今でも心が揺らぐことはよくあります。それはいましあわせであることと関係なく起こることで、そういうもんだと受け入れています。
これも何度も書いていることなのですが、大好きだった人が先立ってしまったという悲しさはたぶん一生消えない。乗り越えることもできない。ただ、その悲しさと上手に付き合うことができるようになるってだけだと思っています。でも、それでいい。
死別に限らず、人生において、わりに多くの出来事が、無理に変える必要も、押しころす必要もなく、ただ「うまく付き合えるようになる」だけでいいんじゃないかと思っています。
