不愉快は消せない、けれど、減らせる
更新したのは先週ですが、動作学マガジン「動作学というレンズを通して」の最新投稿のお知らせです。
私が「知覚行為循環(インプット・プロセス・アウトプット)」の概念を知ったのは4、5年前。この概念が腹に落ちてからというもの、生きるのが本当にラクに、そして、楽しくなったので、かつての私のように「何だか知らないけど漠然と生きづらい」「自分が不幸とは思っていないが、心から楽しめている時間はそう多くない気もする」というような人に何か参考になることがあるんじゃないかと思って、動作学を伝えることに情熱を燃やしています。
知覚行為循環が腑に落ちる以前の私は、苛立ちや怒りなど、自分が感じた不快な感情を押しとどめることにパワーを使っていました。
感情的になることは良くないことだ、という気持ちもありましたし(実際には感情を出すことと感情的に行動することは別物なんですが)、やっぱり怒りや苛立ちというのは醜いという意識があって自分がそんな醜い感情を持っているということを認めたくなかった部分もあると思います。
でも、知覚行為循環の概念を知って、感情というのは、いろんなものをインプットし、プロセスした結果として出てくる排泄物のようなものだと理解できるようになりました。
それによって、まずそもそも、アウトプットは生命(いのち)が生きるために出してきた結果である、つまり、現状のインプットとプロセスを通じて出せる一番の結果を出してきているのだとわかり、どんな感情も愛おしく感じられるようになりました。あ、私、生きているってだけだ、って。
もう一つ、どんな排泄物も、何をインプットし、どうプロセスしたかの結果でしかないから、出てくる排泄物の状態が気に入らないなら、インプットとプロセスを見直せばいいということも学びました。
それまでの私は、出てくる排泄物の状態を研究分析していたんだなって気づいたんです。
どういうことかというと、怒りが出てくるのは望んでいないから、出てきた怒りを覗き込んで、怒りが出てきた原因を探って、その原因に対処しようとしていたんです。
でも、それだと見落とす視点が出てくる、ということも動作学を学ぶにつれ、わかってきました。
というのも。
動作学でマクロ(全体論的)に見ると、気に食わない排泄物が出てきた理由が何か一つの特定の物事にあるってことはないからです。
たとえば、冷たいアイスを食べすぎてお腹を壊した時、「アイスの食べすぎでお腹を壊した」というのは、もちろん一つの理由でしょうが、もし睡眠が十分に取れていて、栄養状態もよく、体内の温度も理想的で、そもそもの体の基礎状態が良ければ、冷たいアイスを食べすぎたとしても、体は本来持っている恒常性をフルに発揮して、お腹を壊すことなく済ませられた可能性もあるかもしれないのです。
逆にいうと、体の基礎状態がそもそも弱っていたら、アイスの食べ過ぎを控えたとしても、今度はプールに入ったらお腹を壊す、とか、ちょっと辛いものを食べただけでお腹が痛い、とか、違う原因で同じ症状が発生することになります。
体のことはあまり単純化すると誤解を生む可能性があるのでこのへんで切り上げますが、たとえば怒りや苛立ちなど、不愉快な感情も、それがよく出てくるのだとしたら、「職場の雰囲気が悪いから」とか「好きじゃない仕事をやっているから」とか、何か一つの原因を探して対処するよりもインプットとプロセスを見直すということをしてみる方がずっといいということを言いたかったのです。
少なくとも、私はこの仕組みが腑に落ちてからというもの物事の見え方が180度変わったと言って過言でなく、新しく見えている世界は驚くほど生きやすいことに毎日感動しています。
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