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今日のつぶやき

友人が以前してくれた気功の先生の話をときどき思い出す。

その気功の先生は常々、「自分が意識していないものは存在しない」と話しているらしい。それで、友人は、「では、自分が月を見ておらず、月を意識していないときは、月は存在しないということですか?」と質問した。

すると先生は少しだけ考えてから答えた。「はい、あなたが月を意識していないときは、月は存在していません」。

コロナパンデミックについても、いま全米各地で起こっている暴動についてもニュースにチャンネルを合わせれば画面の向こうの世界は確かにひどいことになっているのだけど、わたしのいまこの目の前に広がる世界は、平和で美しく、いつもとなんら変わらない。

現実を受け入れろ。事実をよく見ろ。

きっとそれは大事なんだろうけど、現実も事実も受け入れたり見たりするにあたっては、自分の意識を通すしかない。そこに「自分」が介在するからにはその現実や事実は、万人にとっての現実や事実であるとはとても言えない。

数字だけは確かな共通項かもしれない。でも、3を多いと感じる人と少ないと感じる人がいて、その数字をどう受け取るか、見るかは、やっぱり人によって違ってしまうものだと思う。すると、その3という数字の意味することがそれぞれ違ってくるから、一概に数字だけは確かだとも言えない気がする。

何かのドラマで聞いた「会わなくなった人は死んだも同じ」という言葉もよく思い出す言葉のひとつ。冷たいわけじゃなくて、要するに、自分の手の届かない、いまの自分の世界にはないことにエネルギーを使うよりも、まずは自分、そして自分の目の前にあるものに丁寧に取り組むことが大事ということなのだと思う。

わたしの場合、だいたい「なんかしらんけど疲れた」と感じるときは、たいてい、そういう、自分でどうしようもないことに影響を受け過ぎていたり、なんとかしようと力を注ぎ過ぎていたりするときだ。いま大変な目にあっている人を見ると、実際に助けを求められたわけじゃなく、その人たちと知り合いでもないのに、いましわせなわたしは何かしてあげられないかと思ってしまうのだが、それは傲慢というか、わたしの仕事じゃないんだろう。わたしにできることはいまのこのしあわせな世界をどれだけ維持して広げていくか、なんじゃないか。

広げていけばそこに誰かを招き入れることができるかもしれない、できないかもしれない。でも、やっぱり自分はあくまでも自分ということを突き詰めていくことがなんかしらの世界への貢献になるんだと思ってやるしかないという結論に至るのだった。

いつも体に置き換えて考える。肝臓は肝臓の仕事をする。心臓は心臓の仕事をする。それぞれのパーツが他のパーツのことに手出し口出しすることなく、しっかり自分の仕事をしてこそ全体の調和が成り立つのであるぞ、と。

【本】『道行きや』

詩人、伊藤比呂美さんの最新刊『道行きや』が良かった。読んだあとに心をもっていかれてしまった。まるで伊藤さんになったような気持ちになった。もちろん、伊藤さんがどんな気持ちで書いたかはわかりりようがないから、正確にはこの表現は正しくないけれど。でも、人生という旅路を、実際に土地土地を漂流しながら歩いている伊藤さんに自分の姿が重なるようであった。それは私も伊藤さんと同じように日系移民であるからだろうと最初は思った。でも、しばらくして、いや、これははやり伊藤さんのすごさなのだと思うようになった。読み手をぐぐいと言葉で現れているもののずっと奥に引き込んでゆく。その場所、つまり言葉の奥の奥の部分では多くの人が何かしらの共通項を持っている。集合意識的なものかもしれないし、そのへんの専門用語はわからないけれど、とにかく自分のことを題材にして、しかし誰もに通じるような話にしている、そういう点で確かにこれは「エッセイ」ではなく文学なんだと理解した。

「MIss」をそのまま「ミスする」としたり、わたしも常々日本語で直接言い換えるのが難しいと思っている言葉が、そのままカタカナで出てきたり、アメリカの友達の言葉を訳すのも、なんというか、そうそう、わたしもそのように理解していると思えるような、話している英単語がありありと思い浮かぶような訳し方だったりして、そんな細部もさすが詩人であった。

今日のつぶやき

私が持つFacebookへの違和感は
本当に近しい人との交流と
個人や小規模ビジネスの宣伝と、
その両者の微妙な合間にいる
ネットワーク的な交流と
全てが混在していることにあるかもしれない。

どれが良い悪いではなく、
単に自分がそのどのタイプとして
Facebookの世界にいたいのかが
まだわからないということなんだと思う。

たとえば友だちとしてつながっていた人が
あるときから突然ビジネス発信を始める。
それは何ら悪いことではないが、
わたしのリスペクトするライフコーチの
言葉を借りると
「友達は客じゃないし、客にならない」ので
受け取り手としては違和感があるのだ。
「応援したい」とはもちろん思うが、
それはまさに「応援」であって、
本当にそのビジネスを必要とする客であるかというと
そうでもなかったりする。
お付き合いでする「いいね!」が
本当にその人のビジネス拡大に役立つかといえば
ちょっと疑わしい。
本当に必要としている人を探すことが
ビジネス拡大の鍵だから。

逆に最初からビジネス発信だという
スタンスでFacebookをやっていれば
そういうアカウントだと思って
「友達」になるので問題ない。
そういう場合は、ある意味
ちゃんと「客」であるからだ。

で、わたしはリアルな友達と
つながるツールとして
Facebookをはじめたが、
良くも悪くも
小さなコミュニティーの中では
公に顔を出す機会が増えて、
わたしの言動は
わたし個人のことだけでなくなった。
最初からわたしが公の人として
アカウントを作っていれば
何ら違和感はなかったのだが、
いまは公っぽい投稿をするたび、
これは「友達」の中でも特定の人に向けた話で、
昔からつながっている「友達」への
言葉ではないという違和感が
どこかにずっとあるのだ。

いや、違うな。
書いていると気づく。
わたしはFacebookにはもう
友達としてのつながりは求めていないのだ。
本当の友達はFacebook以外でつながれるから。
だから、たぶん公の自分を出していきたいのだ。
がしかし、これまで書いたような
いろいろな思いが複雑に交差して
昔からの友達にどう思われるかが
気になって結局、必要に迫られたときしか
Facebookに投稿しなくなっているというのが正しい。

まあ、そうなら、
親しい友達と、公として接する人と、
投稿の限定範囲を変えればいいのだけどね。
そこまでするのが面倒臭いから
最初から友達との交流とは思わずに開設している
Instagramに流れている。

別にやらなきゃいいだけなので
こんなに長々と書くほど悩んではいないのだが、
なんとなく頭を整理してくて書いてみた。

このように自分の違和感を
いちいち分析するのが嫌いではない。

今日のつぶやき

犬たちがかぷりとトカゲをやる。
食べるわけではなく、
ただその動きに本能的に反応し、
つい咥えてしまうといったふうだ。

咥えられたトカゲは
犬の上下のキバにおとなしく挟まれて
しばらくして息絶える。

もし、これが人間の子どもならば
「自分が食べるわけでないものを
むやみに殺してはいけない」と
教えたりするかもしれないが、
犬にはわかりようがない。
犬はただ本能的に反射的に
やってしまうだけだ。

これも自然の摂理なのだ。
とわたしは思うようにしている。
思うようにしているが、忍びない。
今月、散歩の途中だけでも3匹が逝った。
今朝は裏庭から戻ったユパが
何か咥えていたので、
にじりよって見たら
ひからびたトカゲの半身であった。
尾っぽだけが切れていたのであれば
きっと逃げられたのだろうと思えたが、
足も付いていたので
当然、残りの半身も生きてはいないだろう。

トカゲにしてみたら
通りがかった犬の襲撃は
思いもよらぬ天災のようなもの。
でも、規模の差はあれど
そのような天災による被害は
きっと至るところで起こっている。
いまこの瞬間もどこかである。
それは自然の摂理である。
そうは思っても忍びない。

わかっちゃいるけど
やめられない
みたいな。

犬達が放り投げたトカゲの体は、
しょざいなげに道路に残されるが、
翌日の散歩時には
アリや虫のエサになっている。

死んでもなお営みは続くのだ。

こういうことに過敏になるときは
だいたいホルモンのせいなんじゃないかと
最近思っている。
そういうときは抗わず、深入りもせず、
ただ、「ふーん」と受け止める。
若いときはだいぶもてあましたが、
いまは自分の取り扱いはだいぶわかり、
処方箋もたくさんある(比喩です)。

自分に限らず、多くの人にとって
20代30代と若い間は、
自分の取扱説明書を作るための
時間といっていいのかもしれないね。

いろいろ大変でも
世界で唯一自分だけの、
今後一生使える取扱説明書を
作っているのだと思えたら
少し楽しく思えるかもしれない。


今日のつぶやき

若い頃は本当に生きづらかった。
いま思い返すとあれは摂食障害の
一歩手前だったなという体験もあるし、
高校生のときには登校拒否の経験もある。
20代後半にはアームカットをはじめ、
さすがにこれはマズイと
自力で心療内科の門戸を叩いた。

心療内科の勧めでカウンセリングを受け、
カウンセラーとの相性がよかったのか
1回目のセッションで確実に変化を感じ、
そこからわたしの自己探求が始まったように思う。

その後、ヨガ、アロマテラピー、
エネルギーヒーリング、サーフィンと
いろいろなものに出会い、
そのたびに一皮一皮
古く重くなった鎧をはいできた。
鎧はきっといまもあるが、
かつてほど重たく自分を苦しめることは
もうない。

気づけば中年となり、
あの頃のような生きづらさは
もう持ち合わせていない
どころか、
どうしてあんなに生きづらかったのか
正確に思い出すことも難しい。

だから、若い子が、
かつてのわたしと似たような
生きづらさを抱えていても
わたしには気の利いたアドバイスができない。
話はずれるけれど、これは死別体験も同じで、
わたしは夫を亡くした経験をし、
それをくぐり抜けてきたけれど、
いままさに死別の喪失を体験している人に
何か役立つ話ができるかといえば
何もできないような気がする。

いまのわたしが20代の
あのつらかったわたしに何か言うとしたら…
そんなふうに考えてみたら
この言葉が出てきた。

Hang in there.

これ、日本語に訳すと
がんばれ、とか、諦めるな、って
ことになるけれど、
それよりもっと直訳に近い感覚で
「なんでもいいからしがみついておけ」
という感じ。

なににしがみついておくか?
その肉体に、いま持っているその人生に、です。
いまその肉体で、いまの今生でしか
味わないような素敵な体験が
未来にはたくさん待っているから
簡単には体を出るな。
その変わり自分にとことん甘くしていいし、
自分に厳しいことの全てから逃げていい。
自分が「ここならしがみついていられる」
という場所を探して、そこで時間を稼げ。

こうして改めて書くと
20代のわたしは未来のわたしの
この声をちゃんと聞いていたんじゃないか
そんな気がしなくもない。

当時は「明けない夜はない」などと
それらしい励ましの言葉を言われても
「そんなのわかってる。夜明けまで
あとどのくらい待たなきゃいけないのか、
それがつらいのだ」と泣いていた。
でも、泣きながらも、笑える日ももちろんあり、
世界に悪態をつき絶望する日もありながら、
だけど希望を持てる瞬間もあり、
そうしてなんとか持ちこたえているうちに
気づいたらあの頃とは全く違う世界が
目の前に広がっていた。
そこではわたしは身軽で、
あの重たい生きづらさは影も形もなかった。

若い女の子というのは、
そもそもきっと生きづらいのだ。
生きづらくなりやすい生物で、
生きづらくなりやすい社会なのだ。
なので多くのことは
年をとるというだけでもだいぶマシになる。

いまから15年近く前、
抗うつ薬の処方がついに終わりになったとき、
心療内科の先生が言った。
「いつか、こんな日があったと
笑い話になりますよ」と。
すごくよく聞く言葉で
当時のわたしにはインパクトはなく、
「ですね」と適当に答えたけれど、
40代半ばになったいまのわたしが
若い子に何か言えるとしたら
それくらいだなぁと
若い子には何も響かないことを承知で
でも言わずにいられないのだった。
Hang in there.

Today’s Quote
“The glory God is in store for you. Take your glory. It’s waiting for you. And run with it.”
_Oprah Winfrey

今日のつぶやき

川尻先生とミーティング。
近年、企業やチームのコンサルもしている先生は、
この自粛の中でもZoomのセミナーで忙しくしている。
日本に行かなくても日本でセミナーができるので
むしろ今は2つの国の時間で働いていて
いままで以上に忙しそうである。

先生は言った。
オンラインのセミナーは
当初は違和感というか居心地悪さがあったが
最近、画面を通して感じる”人感”が
リアルでセミナーをしているときと
そう変わらなくなっている自分に気づいたと。

じつは同じことを、わたしも感じていた。

自宅待機の間、取材も打ち合わせも
全部がオンラインのビデオ通信であった。
これまで会ったことがある人はいいが、
初めて会う人に対しては
初めて会うのがパソコン画面というのは
なんだか気まずいし、
リアルで会って話すときのような
「言外に感じる何か」を逃してしまうような
そんな気がしていた。
なのに、2カ月も経った今はまったく抵抗がない。
画面の向こうの人もまたこの環境に慣れて、
案外抵抗なく普通に話しているように感じる。
なんならこれまで同様の言外に感じる何かも
ちゃんと画面から感じられているようにさえ思う。
数値化して比べようがないから感覚でしかないけど。

それだけ、脳は適応するってこと。
脳の適応力はわたしの思うよりずっとすごい。

もちろん、オンライン化が進んだからといって
オフラインが消えることはない。
ウェブ画面で会えるからといって
直接会う機会が全てなくなるわけじゃない。
コロナ渦に急速に進んだオンライン化は
オフラインに取って代わるのではなく、
オンラインもオフラインも選べるという
選択肢を増やすということだと
川尻先生は言っていた。
言われてみるとその通り。
おかげでまた隠し持っていた恐れに気づけた。

わたしはなんでも斜めからみる癖があって
何か新しいものが出てきたり、
そのものがすごく人気だと聞いても
すぐには飛びつかないのだけど、
その背景には、
これまで慣れ親しんだ何かが
新しいものに取って代わられてしまうかもしれない、
という変化への恐れがあったのかもしれないと。

基本的にはアナログが好きなのは変わらない。
でも自分が使えるツールの数は多いほど
選択の自由度が増す。
そうマインドセットが変わって
わたしの生活のデジタル化が一気に進みそう。

ヨガナンダのSRFのレッスンでさえ、
モバイルアプリがある時代ですからね。
アナログが好きというのと
アナログしか使えないというのは
だいぶ大きな違いなのだ。

でももちろん、良い悪いの話ではなく、
皆もそうしようよという話でもなく、
自分はどんな人生を選択したいかの話です。

今日のつぶやき

メモリアルデーの三連休。
旅行に出たいがこの状況では行けないねと
つぶやいた他エリアに住む同僚に
「わたしも海くらいしか行かないよ」と
同意する気持ちで返事をしたら
「海いいな!」と返ってきた。

…そうだった。
海に行くって人によっては
ちょっとした旅だ。
ここで暮らしていると身近だから、
多くの人にとって海は日常ではない
ということをつい忘れている。

似たようなことがあったことを思い出した。
以前ライフコーチの上野ハジメさん
単発セッションを受けたときだ。

わたしはいつかは自分で何かやりたい
という願望が強くあって、
そのために足りないものを
いまのうちに準備しておこうと考え
足りないものを見極めようと思って
まずは単発でセッションをお願いしたのだった。

セッション直後は、
いいセッションで刺激になったが、
わたしが得たかった答えとは違ったな…
ま、得たかった答えでなくてもいいか…という感想だった。
が、数日後に急にキンコーン!と腑に落ちた。

わたしは、自分に足りないもの、学ぶべきもの
を知ることを期待していたが、
セッションを通して気づかされたのは、
いまのわたしで勝負できるものがある
ということであった。
理想にこだわらず、いまできることから
まずはやってみればいい。

自分にとって当たり前にできることは
あまりに当たり前すぎて
そこに価値があると気づいていないことが多い。
たまに思い出しても、
慌ただしい毎日の中でまたつい忘れる。
この度の自宅待機期間は
そこを思い出す時間にもなった。

人の話を聞き続けるのが苦じゃない、とか、
家の中にいつづけても結構平気、とか、
そんなことでも、見方次第では価値になる。
ただ類は友を呼ぶで、
自分の周りをみわたすと
同じような人が多かったりする。
だから、それが誰かにとっては価値になると気づきにくい。

どこに身をおけば自分が価値になるのかを
見つけるということ。

見える世界が広いほど
自分を活かせる環境を見つけやすいと言えるから
いろんな世界を知っておくといいでしょうね。