03.25.2020

本棚を見るとその人がわかる、と昔はよく思ったものだけど、
いまの時代は本棚よりパソコンかケータイかもしれない。

どんな背景画面をトップに使っているか。
どんなアプリをショートカットできるようにしているか。
どんなサイトをブックマークしているのか。
どんな検索履歴が残っているのか。
どんな音楽が入っているか。
どんな写真が保管されているか。
それで、その人の好みがなんとなく見えそうだ。

さらに、どんなふうに整理されているかからも
その人の性格が垣間見られそうだ。

デスクトップは整然としているか、いないか。
メールなどの未読が溜まっているか、いないか。

こんなことを思ったのは、
久しぶりにiPodで音楽を聞いたからだ。

電源を入れて画面が立ち上がったとき、
かつての自分と再会したような感覚があった。
アメリカに持ってきたもののほとんど使っていなかったから
中味は日本にいた頃のまんまだったのだ。

そうだ、あの頃は、この曲をよく聞いていたなぁと
懐かしくなる曲ばかりだった。

逆にいうと、いまは、あの頃よく聞いたような歌は
ぜんぜん聞いていないということでもある。

それでセンチメンタルになったわけじゃなくて、
ただ、いろんなことが変わったなぁ、とだけ思った。

過去は振り返るなってよく言われるけど、
こうして時々、過去の自分を振り返ると
いまの自分にいたるまでの歩みが見えるようで
それはそれでいいもんだ。


03.24.2020

カリフォルニア州に「自宅待機命令」が出て、
在宅勤務になって数日が経った。

もともとわたしはフリーランサーのキャリアが長く、
家で働くのはむしろ得意としている。
ただ、この6年はずっと会社勤務だったせいか、
仕事を終えた後、仕事モードから
自分を切り離すのに少し苦戦している。
家で仕事に集中するのに苦はないのだが、
同じ家にいながら気持ちをオフに切り替える方法を
うっかり忘れてしまっているようだ。

思えば、会社に務める前までは、
自分は「会社勤務は無理な人」だと思っていた。
いまも向いているか向いていないかと言えば、
フリーランサー的な動きのほうが向いているとは思う。

ただ、40半ばになって、確信したことがある。
「わたしは○○○な人」という○○○は、ほとんどの場合、
これまでの習慣(無自覚なのも含め)によって形成された
「習慣によるキャラクター」に過ぎないということだ。

かつてわたしは、
「わたしは会社勤務は向かない人」と思っていた。
けれど、それはそれまでの思考や行動の積み重ねで
できたキャラクターに過ぎなかった。
いま会社勤めは以前考えていたほど苦じゃないし、
なんならこれが会社の楽しさだなぁと感じることも多い。
わたしの働きぶりを見た人は
むしろわたしは企業や組織にフィットした人に
見えている可能性も高い。

思考か行動を変えれば、習慣も変わって、
そのアウトプットとしてキャラクターも変わる。

これを自分で体得できたことの一番のメリットは
なりたい自分や、やりたいことを見つけたとき、
「わたしは○○○な人だから難しい」と思わなくなったことだろう。
よく言われる「自分にかけている制限を外す」ということが、
自然とできるようになるとも言える。

自分にとってはこの数年でようやく気づいたことだけど、
これ、とっくに知っていて、できている人も多いでしょうね。
でも、「えー、うそー?」とよくわからなかった人には、
ぜひ人体実験していただきたいです。

われわれは人生を変えるのにとかく派手なことを期待するけれど、
じつは人生を変えるのはこういう地味な
実践の積み重ねだってことがわかってきたのも
40代になってからだなぁ。

03.23.2020

幼いころから、夏の夕立ちというものが、好きだった。
何もなければ無事に過ぎていくはずだった暑い1日に
急にもくもくと暗雲が立ちこめて
傘を差すさすことがばからしいくらいの大雨が降り、
ごろごろぴかりと轟音とともに空に光が走る。

夕立は台風と違って、基本的にはすぐ過ぎ去ると
わたしたちは知っている。
すぐ終わるから、被害が出たとしても、
そこまででないと予想もできる。
だから、ちょっとした非日常として
楽しむ、とまではいかなくても
冷静さを保つことは難しくなかった。

じつは、夕立ちそのものじゃなくて
夕立ちの後が好きらしいと気づいたのは
もう少し大人になってからだ。

夕立ちという非日常によって皆が少しだけ高揚して
その高揚を残したままに
「そちらは大丈夫だった?」
と互いを気遣う会話があちこちで聞かれる、
あの独特の雰囲気。
心理学で、ハラハラドキドキを共有すると
その人との関係性が深まるというのを聞いたことがあるが
夕立ちのあとの町に、わたしはそれを感じる。

このたびのコロナウイルスうんぬんについては
夕立ちのようにすぐ過ぎ去ることを知っているという安心感はなく、
被害が出たとしてもそこまででないと予想もできない。
けれど、いろんなことが落ち着いたあとには、
あの夕立ちのあとの町のような世界が
広がっているといいなと思っている。

その世界で自分は何をしていたいか?
振り返ったとき何をしていたと言いたいか?
それをいまここの自分の判断基準のひとつに
してもいいのかもしれないね。

03.22.2020

家の中に迷い込んできた蜂がいた。

出口がわからなくなった蜂は、
閉まった窓ガラスに向かって懸命に飛んでいた。
差し込んでくる光を頼りにしているのだろう。
すぐ左には全開の窓があるというのに、
それには気づかず、目の前を仕切る透明の窓ガラスに
蜂は一心不乱にぶつかり続けていた。

わたしはしばらく見守っていたが、
蜂が弱ってきた様子が目に見えたので、
そのへんにあった紙を差し出し、
必死にしがみついてきた蜂を左の窓から外に放った。

これまでの自分だったら
「光が見えてるのにどうにも手に届かないときは、
目の前じゃなくて、左や右や後ろを見てみると
意外な突破口があるかもしれない」
とか、
「もがきつづけていれば、
思わぬ救いの手が差し伸べられるのだ」
というような教訓と捉えそうな出来事だ。

でも、今回思ったのは、それとは違うことだった。

時と場合、そして物事によっては
視点を変えたところで出口が見当たらないこともある。
そもそも出口がない問題にはまっている可能性だってある。
待っても待っても救いの手が現れないことだってありうる。
望んでいたような救いがもたらされたとしても
もっと大きな視点から見たら
それが本当の意味で救いであるとは言い切れないことだってある。

わたしが今回、思ったのはこういうことだ。
「どんな経験だとしてもその経験が
自分という人間に付け加えられていく、
それこそがきっと生きるってことだ」

もがいてもがいて出口が見つからなかった経験、
視点を変えてみたら出口が見つかった経験、
神の救いのような手助けにより出口が開いた経験、
経験したことが何であれ、全てに応用はきかないから、
学びとして全てに適応することは難しい。
でも、経験によって試行錯誤したことや、考えたこと、
泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりしたこと、
全ては「これまでの自分」に何らかの形で加味される。

一人の人間として人生を生きるということは
たぶんそれの繰り返し、もしくは積み重ねなんだろうし、
そうやって自分のうちなる土壌を
豊かにしていくことなんだと考えるようになった。

そう考えると、たとえいま経験していることが
悲しみだったり失敗だったりしても
それもその人の土壌を豊かにするという点では
良い悪いもポジティブもネガティブもないってことになる。

あなたもわたしも
今日もいつもと変わらぬ1日を過ごし、
何も目に見えて成し遂げてはいないかもしれないけれど、
生きているだけで
昨日より確実にそれぞれの土壌を豊かにして拡大しているのだ。

03.20.2020

自覚のあるファンではないのだが、時折、木村拓哉さんの夢を見る。パターンは決まっていて、あのドラマのキャラクターとしてよく見るオラオラ系?カベドン系?の感じで、ちょっとつっけんどんに、だけどものすごーーーーーくやさしくされるというパターン。「ったく、しかたねぁな。こっち来いよ」的な。今朝も見た。キムタクの温もりまで感じる夢で、起きたときの幸福感たるや半端なかったが、その温もりはかたわらでいびきをかいているデイジー(ラブラドール)のものだった(笑)。

さて、カリフォルニア州もついに「自宅待機命令(Stay at Home Order)」が出た(「外出禁止令」と書いている人もいるけれど「自宅待機命令」とするほうがニュアンスはあっているという友だちの意見に賛成。たとえば散歩などは人との距離を6フィート保てばOKとされている)。自宅待機の命令が出ることについては、他の国、都市の対応からして予測できることであったので驚きはない。いまがふんばりどきだろう。

03.19.2020

このコロナ騒動で、SNSで発信する内容に、その人がめちゃくちゃ出るなぁと個人的にはすごく興味深く見ていて、そのことについて文章にまとめたいなぁと思っていたのだが、どうまとめてもなんか誰かを非難しているように読める気がして、そうでないようにするとお前だれだっていう説教臭い文章になってしまい、自分の気持ちは言葉に整理できないまんまふわふわとわたしの中にあった。しかし、そのわたしの感覚を、古賀史健さんはとんでもなく昇華した文章にしていた。しかも「わたしをあらわすコンテンツ。」というすばらしいコピー(タイトル)で。この書き方は、たぶん誰も嫌な思いをさせない。なんならくすりと笑わせる。説教臭くもない、だけど、なんか襟元正そうぜっていう気持ちにもなる。ああ、久しぶりに悔しい。

03.17.2020

新型コロナウイルスの感染拡大を緩やかにするためにカウンティーの法令が出されて、サンディエゴの飲食店は今日から全てクローズ。これは従業員を抱えた小規模な飲食店経営者にとって大打撃ということは、そういうのに疎いわたしにもさすがにわかる。法令では、To GoやデリバリーであればOKということで、知り合いの日本食飲食店の経営者はSNSでぜひTo Goをしてくれとサポートを呼びかけていた。よっしゃ、と応援するつもりで今日はなじみの日本料理店に足を運び、いくつかのメニューを持ち帰りで買って夕食にした。ごはんはおいしく、いいことをしたという自己満足で満たされたけれど、片付ける段になって、ゴミの多さに愕然とした。知り合いの経営をサポートしたい自分と、なるべくゴミを減らそう、サステイナブルに暮らそうとしている自分との間に、矛盾が生じている。はて、どうしたものか…というような問題にひとつひとつ知性と感性を使って、自分なりに納得いくポイントを探していくという作業をずっとし続けるんだろうな、いろんな側面において、などと考えた。